音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

マレの迷宮ラビリンス

2024-06-03 21:00:00 | バロック
日曜日は松井山手の実家でレッスンの後、牧野に帰って、京阪で京橋までJR学研都市線に乗って尼崎から快速急行に乗り換え、住吉で六甲ライナー。

海が見えると嬉しくなる。 

ラ サーラ ディ オルフェオの下の階のMusicasaで安達萌さんのピアノと合わせでした。

プリジアルディの「ローエングリン幻想曲」を合わせて頂きました。
以前、榎田先生と合わせたことがあると聴いてドキドキ。

「でも昔なんですよ。」と安達さんにっこり。
でもまあ、比べ物にならないから良いか。

この曲本当にいい曲です。

持ち時間15分でテンポや、気になる入りを打合せして、あっという間でした。

今日はこれだけ。
帰ろうと思って、いつもと少し違う通路を通ったらたちまち「あれ?ここはどこ?」状態に。

外から見たら真っ直ぐの建物は中で円形になっています。
思ったところと違う…もうみなさんお気づきですよね。私、絶望的な方向音痴です。

しかし駅まで徒歩300mで迷うとは思わなった。しかも人口の建物の中で…。

でも安心してください。無事に帰れました。どうして帰れたのか?よくわかりませんが…動物的感。当たらない時もありますが、今回は大丈夫でした。

マラン マレ「迷路の園」
アルペッジョによる前奏曲

マラン・マレー(1656-1728年)は
フランス王国パリ生没

の作曲家、指揮者、バス・ヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)奏者。

パリ南の貧民街で見習い靴職人の子どもとして生まれ、幼少の頃から音楽の才能を認められて1667年にはパリ第一の音楽教育機関だったサン=ジェルマン=ロクセロワ教会の聖歌隊に入ります。

1672年までフランソワ・シャプロンなどのもとで教育を受けます。

聖歌隊を出た後、ヴィオールをサント=コロンブなどに師事して、名手として知られるようになります。

おそらくはリュリ門下の作曲家ジャン=フランソワ・ラルウェット

などの手引きもあって、1676年にはパリのオペラ、そして1679年8月1日からはルイ14世 


の宮廷のヴィオール奏者に任命されました。

また作曲家としての名声も高く、1693年に最初のオペラ『アルシード』を発表してからは、パリのオペラの
作曲家、そして後には指揮者としても成功をおさめています。
晩年にはまた、ヴィオールの優れた教師として知られました。

1676年9月21日に結婚した妻のキャトリーヌ・ダミクールとの間に生まれた十数人の子供のうち、数人は音楽家として名声をなしました。

Marin Marais: Le Labyrinthe
1717 in Pièces de viole, Livre IV (No.74)
「迷路」ヴィオールのためのピース 通奏低音。Amoll
ルイ 14 世の迷路への情熱、彼を楽しませるために作曲された「マレの迷宮」、



吉延佑里子リサイタル

2024-06-02 21:04:00 | コンサート
土曜日は吉延佑里子さんのリサイタルでした。  
京都 大宮松原の遠藤剛熈美術館で開催されます。

京阪五条まで出て、京阪バスのバス停で見てみたら、表示の仕方が違います。

道を通りかかった地元の方に聞くと、親切に路線図と時刻表をヤフー路線と確かめてくれて、大丈夫です。
と言うことで19分に来たバス乗りました。
しかし、なぜかそのバス京都駅について、なおも乗っていると、終点。
慌てて運転手さんに「大宮松原にはいかないのですか?」と聞いたら「行きません。どこから乗られました?」 
「五条京阪。」

「違いますわ。京都駅の南の方から出てるのでそちらに乗ってください。」
なんと!
調べたらアバンティの前から市バスが出てるみたいです。
行ってみたら、京阪バスとか遠距離バスばかり。
市バスはどこ?
と見てもわかりません。
結局時間が迫ってきて、タクシーに乗りました。
「遠藤剛熈美術館。という所わかりますか?」と聞くと
「どこかな?」
「大宮松原のバス停の近くみたいです。」
「とりあえず大宮松原に向いますね。」

いろいろ調べてくださって
「堀川通りから入った方がワンメーター安いですね。」
と言うことで向かいましたが、出入り口が通りの反対側で少し戻って、道を行く人に聞いてもらってようやくつきました。

ギリギリ…1分遅れ、でも遠藤剛熈美術館とあって、遠藤剛熈さんの説明が美術館員の方から開始10分後まであり、助かりました。
あまり頭に入って来なかったけれど…ごめんなさい。

京阪バスの運転手さん、タクシーの運転手さん、みんな親切で優しかった。


ヤフー検索

どこで、間違ったのかな?
帰りは京阪バス大宮松原から乗って

京阪五条にスムーズに帰れました。
不思議?

五条大橋

とにかく無事コンサート全曲聴けました。

さて、落ち着いた所で吉延佑里子さん登場。ピアニストは椴山さやかさん、音大時代から一緒に活動されているそうで、初めからゆったりと温かい空気で心地よかったです。

吉延さんは「緊張してる。」と話されていましたが…。

ボニスのスケルツォop.posth187
珍しい作品です。メラニー ボニス
1858-1937年 フランス帝国バリ生まれ、フランス共和国サルセル没
は男性優位の社会にあって仕事をしやすいようにメル ボニスと名前を変えて活躍した作曲家です。
しっとりとした優しさの中にエネルギッシュな曲でした。

フォーレのファンタジーop.79

ガブリエル フォーレ(1845年 - 1924年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没

1889年パリ音楽院のコンクールの課題曲として作曲されました。
メロディックな前半とはつらつとした後半。
本当に歯切れがよく気持ちよかったです、

フンメルのフルートソナタop.50

ヨハン ネボムク フンメル(1778 - 1837年)オーストリア= ハンガリー帝国 ポジョニ生まれ、オーストリア=ハンガリーヴァイマル没
この曲は「フルートまたはヴァイオリンのオブリガート付きピアノソナタ」というのが初版の時の題名だそうで、かなりピアノをフューチャーした作品でしたが、それも2人の仲の良さが伝わってきて好ましかったです。

休憩は2階にもある遠藤剛熈の作品を見せていただきました。

モネやルノワール、セザンヌに影響を受け、南禅寺で三十年も修行し、1枚の絵に十数年をかけたという遠藤の絵画は、表層的な軽さを拒み、心の内面を描こうとしていると学芸員の方のお話にしばし耳を傾けました。

絵画は撮れませんが建物がおもしろかった。

さて後半はゴダール

バンジャマン ゴダール(1849〜1895年)フランス パリ生まれ、フランス ガンヌ没
の3つの小品の組曲op.116

軽妙な楽章で始まり、穏やかな2楽章、ワクワクする3楽章と吉延さんは書いていますが、
これは何度も2人で、演奏されているそうで、息があっていて素晴らしかったです。 ホントにワクワクしました!

最後は
ライネッケのフルートソナタ「ウンディーネ」op167

カール・ライネッケ(1824-1910年)ホルシュタイン公国ホルトナ生まれ、ドイツ帝国サクセン王国ライプツィヒ没

言わずと知れた名曲ですが、意外にもコンサートで演奏されるのは初めてだそう。
ピアノが難しいし、力もいる曲。
ですが伸びやかに演奏されていて素敵でした。


7月15日にも椴山さんとコンサートされます。
2024/7/15 Mon./YouTube Concert ~Lapin(ラパン) デュオコンサート~ Fl.吉延佑里子 Pf.椴山さやか

2024/7/15 Mon./YouTube Concert ~Lapin(ラパン) デュオコンサート~ Fl.吉延佑里子 Pf.椴山さやか

2024/7/15 Mon.16:00開演(配信開始)※来場鑑賞は15:30分~ご入場可能 会場 京都NAMHALLhttps://namhall.com/access/来場鑑賞をご希望の方は↓のフォームより※メッセージ欄に公...

YouTube





フランスからイギリスへ渡った作曲家

2024-06-01 21:00:00 | バロック
紫陽花の季節ですね。
近所の白い紫陽花のアナベル。

ハイドランジア

山紫陽花甘茶

アジアンビューティー ヒトミ

これは霧島かなぁ?
グーグルLENSですが、確信ありません。

シャルル デュパール(1667-1740年)フランス パリ生まれ、1701年からイギリスロンドンに渡り定住しています。
チェンバロ奏者、ヴァイオリン演奏し、作曲家でした。

「6つの組曲」 クラブサン、あるいはフルート、ヴァイオリン、通奏低音のための

Amsterdam: Estienne Roger, n.d.[1701]

バロック期にはイタリア様式と並ぶ影響力を誇ったフランス様式。
18世紀に入るとその流行はさまざまな形で加速しますが、その大きな原動力として、各地に影響力の強い人物が多かった鍵盤音楽の世界でフランス様式が広めました。

フランソワ・クープランと同世代のシャルル・デュパールは、その普及に大きく貢献した一人です。

彼は英国に渡りロンドンの人々にフランス最新様式を伝えただけでなく、1701年には国際都市アムステルダムでクラヴサン組曲集を楽譜出版。

サンドウィッチ伯爵夫人(1674-1757年)

(料理名の元になった第4代サンドウィッチ伯爵の祖母)に献呈されました。
この曲集は、ロンドンから遠く離れたドイツ語圏中部で一生を終えたヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)

も筆写しています。
『イギリス組曲集』
第1組曲プレリュードの主題は、デュパールの組曲(第1組曲イ長調ジーグ)のモチーフの引用です。

デュパールの組曲は、すぐにヴァイオリンやリコーダーを使ったコンセール(合奏)用にアレンジされて同じ版元から刊行されています。

第7ジーグ
ジーグ(gigue:ジーグ、伊:giga:ジーガ)は、バロック時代の組曲を構成する舞曲の形式の一種です。

グレートブリテン島やアイルランドが発祥地と言われています。

giga(伊、古独)とよばれる中世の擦弦楽器の名前とその奏者の名前か、あるいはgiguer(古仏)の「跳躍する」という説があるものの、明らかになっていません。

フランス式
多くの場合、複合3拍子(8分の6拍子、4分の6拍子)、付点リズム、跳躍などが登場し、複雑なアクセントやフーガ的書法がみられます。サラバンドのすぐ後ろに置かれます。

イタリア式
フーガ的書法をとらず、基本和声の上に急速に駆け巡る経過句をもちます。単純明快で分散和音的なつくりになっています。

だんだん様式化され
フランス風は、
フーガのように1声のみから始まり、ほかの旋律が徐々に模倣するなど対旋律的な書法で書かれ、リズムも複雑になっていきました。

イタリア風
イタリアのヴァイオリン音楽の影響を受けたもので、8分の6拍子、8分の9拍子、8分の12拍子などの早いテンポの複合拍子が多く、単純明快な構造です。

デュパールの「6つの組曲」第7ジーグ




ゴージャスな城

2024-05-31 21:00:00 | バロック
木曜日は午前中レッスン。
そのあと神戸三ノ宮まで行きました。
梅田のドレス「エメ」を通りかかったらに予約制の安売りがあるというので予約してもらいました。
安売りは助かるし嬉しいです。

最近はSNSで投稿されるので同じドレスばかりだと言われます。
タキシードで演奏したい…けどそれも楽しみの1つと言われて…。

こんなのとか、

あんなのとか、
はたまたこんなのとか

さんざん試させて頂きました。

いくつになっても、ドレス着るとやっぱりテンション上がります。

アクセサリーやストゥールも合わせてもらうとやっぱりお店のドレスに合わせて作られているので似合います。

嬉しくなって買いそうになる所をぐっとこらえてドレスだけ買って帰りました。
行きは阪急、帰りは阪神で…。

阪神百貨店で次男のお弁当に入れるKYKのとんかつとエビフライ買って帰りました。
人多かった!

でも演奏が肝心!2日は6月16日のエスカル発表会のピアノ合わせ。頑張ろう!…ここではドレス着ませんが…。

6月9日「から騒ぎ」コンサートは金重さんとおそろいの着物ドレス。

たぶん今日買ったのは6月30日の西宮ギター練習会コンサートで着ます。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランドロンドン没
オラトリオ「ソロモン」
は、旧約聖書の列王記第1巻・歴代誌第2巻と、歴史家フラウィウス・ヨセフスによる古代ユダヤ伝の賢明王ソロモン

ソロモン(紀元前971-紀元前931年代)
の伝記に基づいています。

初演はロンドンのコヴェント・ガーデン劇場で1749年3月17日に行われました。

コヴェント・ガーデン劇場
イタリア語でオラトリオを書き、成功を収めていたヘンデルですが、イギリスの繁栄に従って英語でのオラトリオの制作をするようになります。

英語オラトリオ『ソロモン』は、当時のイギリス人にジョージア朝イギリス帝国(ジョージ王朝時代(1714~1837年*)はジョージ1世からジョージ4世までの4人のジョージと、ジョージ4世の弟ウィリアム4世に統治された時代をさします。ヘンデルはジョージ1世(在位1714-1727年)

の戴冠前から彼に仕え、ジョージ2世(在位1727-1760年)


治世中に、亡くなっています。)への祝福として受け止められました。

宮廷画家のジェームズ・ソーンヒルが描いた、家族に囲まれたジョージ1世
膝に手を置いているのは皇太子で、後のジョージ2世。
グリニッジの旧王立海軍学校にあるペインテッド・ホールの天井画の一部

これはソロモンは智慧と正義を象徴する王であり、当時のイスラエルは強大で繁栄していたと思われていたからです。

オラトリオ「ソロモン」

第1幕
ソロモン王と人々がエルサレムでお祭り騒ぎを催しています。

ソロモンは(数百の妻や妾を持っていたと記載されている聖書のソロモンとは異なり)彼の妻と結婚して幸福のあまり喜び、妻のために宮殿を建てることを約束します。

彼らは互いの愛を表現し、花の香りのそよ風に誘われ、夜のために退場します。ナイチンゲールが歌を休むように。

第2幕
ひとりの赤ん坊についてそれぞれが自分の子どもであると主張する2人の遊女の物語です。

ソロモンの審判 ニコラ ブッサン18:49年
そこでソロモンの叡智が示されます。
ソロモンは剣で赤子を切り分けて、それぞれに与えることを提案しながら剣を抜きます。
アントワン・コワペル作  1661-1722年
片方の女が「それなら相手に渡す方がいい。」と泣き崩れ、ソロモンは「泣き崩れた女こそ、真の母親だ。」と断定します。

ルーベンス
遊女とコーラスは、ソロモンの判決を大合唱で称賛します。

第3幕
シバの女王がソロモンの王国へ公式訪問します。

シバの女王とソロモン「ジョバンニ・デ・ミン作 1789-1859年
王と民は音楽で彼女を楽しませ、仮面舞踏会が始まります。
壮大なコーラスの穏やかな音楽が軍事的栄光を褒め称え、不幸な恋人の絶望の嵐をなだめ、賢明な支配者ソロモンによるイスラエルの平和、幸福、繁栄の黄金時代を祝います、
シバの女王はソロモンを試しに来たのですが、国の繁栄とソロモンの叡智に感じ入ります。

シバの女王エドワード・スロークーム作  1850-1915年

「ソロモン」より「シバの女王の入城」




から騒ぎ最後の大作

2024-05-30 21:00:00 | ロマン派
水曜日、ヴィオラの金重美代さんが、練習に来てくれました。

6月9日(日)13:00 
里夢SATOM(阪急六甲駅徒歩6分)
コンサート「からさわぎ」ーNew Meー
にホフマイスターの「フルートとヴィオラの二重奏第1番」出演します。

前日に富久田先生に見ていただいた所を共有。
簡単なお昼ご飯を作って、おしゃべりしながら一緒に食べて、再開。
写真忘れました。

ホフマイスターおもしろくなってきました。

エクトル・ベルリオーズ(1803-1869年)フランス共和国ラ コート サンタンドレ生まれ、フランス共和国パリ没

1868年ベルリオーズ
1860年の夏、ベルリオーズはバーデン=バーデンの音楽祭で、音楽祭の主催者でカジノの支配人、
エドゥアール・ベナゼから、新たに建設される劇場のための短いオペラの作曲を依頼されました。

ベルリオーズはこの依頼を受けると、ローマ留学を終えて間もない1833年に書き出しそれきりになっていた『空騒ぎ』のオペラ化を実現することに決めます。

パリへ戻るとただちに作曲に取りかかります。
持病や評論の仕事、本作以前に完成していたオペラ『トロイアの人々』の上演交渉などで作曲はしばしば中断しましたが、約1年半後の1862年2月に完成しました。

初演は1862年8月9日、バーデン=バーデンの新劇場で、ベルリオーズの指揮により行われました。

『ベアトリスとベネディクト』は
「ファースト・フォリオ」(1623年)から『空騒ぎ』の表紙の複写
はウィリアム シェークスピア(1564-1616年)イングランド王国ストラスフオード アポン エイボン生没

の喜劇「空騒ぎ」が原作でベルリオーズは作曲家よりもシェークスピアから大きな影響を受け、台本(リブレット)も自身で書いています。

ベルリオーズ最後の大作となりました。

ベアトリスとベネディクト


アルフレッド・エルモアによる 『空騒ぎ
第1幕 メッシーナ総督の宮殿の庭

アラゴンの王子、ドン・ペドロはムーア人に勝利し、
シチリア島では祝祭ムードで彼の帰還を待っています。

彼は2人の友人や仲間の兵士であるクラウディオとベネディクトとメッシーナを訪れ、メッシーナの知事でレオナートとその娘エロー、姪のベアトリスに出迎えられます。

エローは婚約者のクラウディオの無事と、彼の活躍への報酬を伴った帰還を待っています。

ベアトリスとベネディクトはお互いにからかったり、あざけったりしています。
あげくベネディクトは「自分は結婚しない。」と友人に誓います。

しかし、クラウディオとドン・ペドロ、レナート、エロー、ユルシュールはベネディクトとベアトリスを結婚させようと企んでいます。

レオナートは、ベネディクトに聞かれていることを確かめて、「ベアトリスがベネディクトを愛している。」とペドロに話します。

それを聞いたベネディクトは「ベアトリスの愛が報われなくてはいけない。」と、彼女にアプローチすることを決めます。

一方、エローと彼女の付き人であるユルシュールは、ベアトリスに「ベネディクトが彼女を愛している。」と吹き込みます。
そしてエローはクラウディオと一緒になれる幸せに浸っています。

第2幕 メッシーナ総督の宮殿の広間

レオナートは棚上げになっていたエローとクラウディオの結婚を祝うために、仮面舞踏会を開催します。

宮廷楽師ソマローネが夜の結婚式のために皆に合唱の指導をしています。

やがてベネディクトが現れ、ベアトリスと会話を交わします。
しかし、互いに自らの愛情を隠し、素直に表現できません。

やがて公証人が現れ、クラウディオとエローの厳かな結婚式を挙げます。

そしてレオナートは計画した通り、ここには別のもう一組のカップルがいるはずだから、前方に来るようにと求めます。

ベネディクトはベアトリスに彼の愛を宣言するための勇気を奮い起こします。
そして、2人は互いが「全く愛していない。」ことを確認し合い、結婚するのは「ただ同情と憐みから、お情けで結婚してやる。」という強い気持ちを伝えあいます。

2人は結婚式の契約に署名し、「結婚した男、ベネディクトここにあり。」と剽軽な悲痛さを帯びた皮肉な歌が大合唱されます。
最後に「今日は休戦に署名しよう、明日は再び敵になるでしょう」の言葉で終わります。





楽譜出版だけじゃない

2024-05-29 21:00:00 | 古典
京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
夕べから大雨。

早めに出たけど、踏切に立入りがあり、安全確認のため停車。
「やっぱり〜。」と思っていたら3分で動きました。

バス停は少し距離があります。
豪雨でやっぱりスニーカーの中まで水が侵入してきました。
おまけにバスは、側溝のちょうど水が溜まっている前で停まりました。

試験かな?高校生が多勢いて黒い革靴でダボダボ入って乗っています。
彼らの靴は多分もうすでにビショビショ。

私は敷石に乗ってステップに乗ってなるべく濡れないようにしましたが…やっぱり靴下は前半分が濡れてたので、先生のお宅のスリッパを汚さないように靴下をぬぎました。

ホフマイスターの「フルートとヴィオラの二重奏」を見て頂きました。

楽譜には書いていなくても、スタカートで演奏したり、スラーにした方が良いところなど、時代に合わせた演奏をしましょう。

出町柳大橋やばかった。

フランツ アントン ホフマイスター(1754-1812年)南西ドイツ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)のロッテンブルク・アム・ネッカー生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

14歳のとき、彼は法律を学ぶためにウィーンに向かいました。しかし、学業を終えた後、彼は音楽家になる決心をし、1780年代までには、広範かつ多様な作品を残し、ウィーンで最も人気のある作曲家の一人となりました。

1785年までにウィーンの音楽出版を初めました。

ホフマイスターは自作や多くの当時重要な作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなど)の出版を行いました。

モーツァルトは弦楽四重奏曲第20番
をホフマイスターに捧げ、

弦楽四重奏第20番1786年
フルート四重奏曲第4番
の変奏曲にホフマイスターの歌曲の主題を使っています。

フルート四重奏曲イ短調第1楽章ホフマイスターの歌曲「自然に寄す」の主題による変奏1786年

またベートーヴェンは手紙の中でホフマイスターを“もっとも愛しい兄弟”と綴っています。

ホフマイスターの出版活動は1791年にピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしました。

彼のオペラの多くは1790年代はじめに作曲・上演されましたが、ビジネスセンスの欠如と相まって、作曲数も減っていきました。

1799年にホフマイスターとフルート奏者のフランツ・トゥルナーは遠く離れたロンドンまでのコンサートツアーに出発します。

しかし、ライプツィヒ郊外まで来ると、2人は“1年以内に”音楽出版業で提携する約束をし、
Bureau de Musique(ビュロー・ドゥ・ミュジック)を設立しました。
(のち1814年に買収されてペータース社となり、現在も著名な楽譜出版社として存続しています)。

ペータース版ベートーヴェン ピアノソナタ
彼らの出版物の中には1802年に出版されたバッハの鍵盤楽曲集第1巻もありました。

1805年までホフマイスターはウィーンの会社とライプツィヒの新しい出版社を行き来していましたが、同年3月にビュロー・ドゥ・ミュジックの独占的な所有権をキューネルに譲渡しました。

ホフマイスターの関心は危機にあったウィーンの会社にあり、1806年には作曲の時間を取るためにChemische Druckerey(ケーミッシェ/ヒェーミッシェ・ドゥルッケライ)に売却したと言われています。

ホフマイスターの膨大な作品の中でも特に目立つのはフルート作品で、25曲以上の協奏曲やフルートを主役にした室内楽作品などがあります。

これらの作品の多くは、ウィーンで増加していたアマチュア音楽家を念頭に置いて作曲されたもので、彼らにとってフルートは最も好まれた楽器の1つでした。

ホフマイスターはまた、少なくとも8曲のオペラ、50曲以上の交響曲、多数の協奏曲(よく演奏されるビオラ協奏曲を含む)、大量の弦楽器室内楽、ピアノ曲、および数曲の歌曲集を作曲しました。

「フルート四重奏」op18No1第1楽章



アレンジで大ヒット!

2024-05-28 21:02:00 | 現代
月曜日は渡辺橋近くのサロン・ド・プリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習でした。
6月16日発表会なので、練習にも力が入ります。

ドビュッシーの小組曲全曲と大阪組だけて「宝島」を演奏します。
榎田先生は8時までで、そのあと残って9時まで練習。


「宝島」は1986年和泉宏隆作曲
フュージョンバンドTHE SQUAREの11個のアルバム 「S・P・O・R・T・S」の中の一曲です。
世界的にアナログ機材からデジタル機材に移行する過渡期に制作された作品で、シンセサイザーや、デジタル楽器を使ったアルバムになっています。

神戸から来たSさん、この紋所は…ト音記号とへ音記号と♭
真島俊夫が吹奏楽に編曲し、全国に広まり、ロングヒットとなりました。

オーケストラ編成での『宝島』。
サックス奏者のYUCCO MILLERのアレンジ版
宮川成治編曲による20人むけのバンドスコア
鍵盤ハーモニカのアレンジ。
エレクトーンアレンジなどなと
様々なアレンジが存在しています。

また、アニメ「響けユーフォニアム」の中でも、演奏されたそうです。

さて、フルートアンサンブルによる私たちの演奏はどうなるのでしょうか?

ピッコロ、コンサートフルート3本、アルトフルート、バスフルートのフルート六重奏。

私はといえば、いつものクラッシックとは違うアドリブに苦戦。
本番までには解決しておきますので

ぜひ、おいでください。
6月16日(日)ラサーラ ディ オルフェオ(神戸六甲ライナー センター前下車5分)
13:00〜

真島俊夫(1949ー2016年)
山形県鶴岡市生まれ。  
神奈川大学工学部中退。
吹奏楽に在籍、トロンボーンを担当していました。
兼田敏に作曲を学びます。

全日本吹奏楽コンクール課題曲をはじめとする数多くの吹奏楽曲を作曲しているほか、二十数年以上にわたり「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」にスコアを提供、代表的な編曲としては「宝島」「オーメンズ・オブ・ラブ」「チュニジアの夜」等、そして「ドラゴンクエスト」シリーズの全吹奏楽編曲を担当。吹奏楽界のジャズ・ポップスの啓蒙に努めます。

2006年、フランスのリールで開催されたクー・ド・ヴァン国際交響吹奏楽作曲コンクールに於いて『鳳凰が舞う』がグランプリを受賞。

2008年8月、オリジナル作品のCD『真島俊夫作品集』がキングレコードより発売されています。

2013年2月3日より、シンフォニックジャズ&ポップスコンテストの大会総監督に就任。

2016年4月21日、がんのため逝去。67歳没。

指揮 真島俊夫による「宝島」吹奏楽アレンジ版



芍薬とベル・エポック

2024-05-27 21:01:00 | ロマン派
日曜日の朝は実家でレッスンでした。
母の活けた芍薬、水揚げがうまくいっていない。
この花は難しくて、切り口をミョウバンでこすったり、蕾についた蜜をお湯で優しくお湯につけて拭いて、新聞紙で巻いて、お湯につけて一晩。
木槌で茎を叩いたり、葉もできるだけ落としたほうがいいようです。

しかし!
「切り口を焼くわ。」と、焼き出します。 
「お湯で揚げたり、新聞紙で巻いて、葉も落としたほうがいいみたい。」と言っても「もう焼いたからいい。」
と聞きません。
水揚げ法のサイトをLINEで送って、レッスン。

終わってから見たら

葉は少し落としたみたい。
まだ多いけど…。
咲くといいなあ~。
帰りにムサシに寄って昨日の続き、サロンのお母さんに作ってもらえそうなものを探しましたが
なかなか適度なものがありません。
流行りの革細工は手がかかり過ぎ、羊毛フェルトも大変。つまみ細工ももうやりました。
粘土は色を揃えるのにお金がかかり過ぎ…デコパージュは良かったけれともう道具も置いてない。
簡単で安く作れるもの無いかなあ?

芍薬はシベリア、中国、モンゴルの原産。日本には古く中国から渡来し、薬用、観賞用に栽培されています。 

ボタンの台木として使用されますがシャクヤク自体の花も美しく、中国で、宋代には育種が始まっています。江戸時代には「茶花」として鑑賞され、
品種改良も行われた古典園芸植物です

また熊本藩では武士の素養として園芸を重要視し、奨励されました。

特に六種類の植物が盛んに栽培、育種され、これを「肥後六花」と総称するが、キク、朝顔、椿等と共にシャクヤクもそこに加わっています。この熊本で育種された系統を「肥後芍薬」と呼びます。

近代に入り西洋にも紹介され、19世紀には特にフランスで品種改良がなされ、豪華な千重咲き大輪の品種群が生まれました。

明治時代以降の日本では、神奈川県農事試験場(現:神奈川県農業技術センター)がこれらを導入し従来の日本の品種群との交配を重ねて、新たな一群が作られました。

その後日本でも切り花用品種の育成が続いているほか、伊藤東一によりボタンの黄花品種との交配により濃黄色の品種がいくつか生まれ、世界的にも注目されました。

また20世紀後半にはアメリカでの育種が進み、いくつかの近縁種との種間交雑も試みられ、従来にない花色を備えたものもいろいろと現れています。

芍薬「サラ・ベルナール」


サラ・ベルナール
(1844-1923年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没
1880年
舞台女優。
フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られています。

1864年
普仏戦争前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。

1865年
ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ったが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられています。

ジャン・コクトーは「聖なる怪物」と呼びました。
キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。

国際的な人気を博した「最初の国際スター」と言われています。
また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物でした。
当たり役の1つ「椿姫」

ラ・プリュム誌の表紙サラ・ベルナール1896年


アルフォンス ミュシャ(1860-1939年)オーストリア帝国モラヴィアイヴァンチツェ生まれ、 ドイツ国ベーメン・メーレン保護領没

が彼女のポスターを描き、一躍時代の寵児に躍り出ました。
「ジスモンダ」のポスター ミュシャ

「トスカ」1899年


1896年「椿姫」

1896年「メディア」


1898年「ロレンザッチオ」

「ハムレット」1898年


ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュッセル没

のオペラ「トスカ」から、「歌に生き、恋に生き」







愛すべき野獣

2024-05-26 21:01:00 | バロック
土曜日の朝は梅田ドルチェ楽器で伊藤公一先生のマスタークラスでした。
スケールとアルペジオだけで45分。
レガートに吹いているつもりでも、先生の耳からすれば、まだまだ。
奥が深いです。
草津の音楽祭に出演されるそうです。
ぜひ、聴きたいなあ。

子育てサロンの手作りのヒントはないかとダイソーに行ったけれど、手作りの目新しいものはなく、推し活グッズコーナーなどが目を引きました。

ユザワヤにも行ってみたけれど、今度は手がかる刺繍などが人気らしい。
推し活人形の手作りとか…。

サロンの短い時間の中では到底無理。
デコパージュや、プラ版のアクセサリー、レジンも、あんまり流行らないみたい。どうしたものか?

考えながら何も買わずにブラブラ。
阪急三番街の端がフードコートになっていて、いろいろなお店が出ていました。

仙台牛たん麦とろで
ランチを食べて帰りました。
安いので助かります。
「味が薄いので、濃いのがお好きな方はおつけ下さい。」と言われて、とろろにお醤油を刺しました。(しないと何もかかってない。)

他の小鉢は私にはまあまあ塩味が強かったです。
矢場とんが出来ていたのでお土産に串カツ5本買いました。


名古屋からあちこち進出しているみたいですが、私の通るルートでは初めて。
夜、夫と次男と、韓国の石の板で焼き肉。端っこで矢場とんヒレかつ串も焼いて食べました。

久しぶりの赤味噌たれで美味しかったです。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルグ選帝侯領ハレ生まれ、グレート・ブリテン王国イングランドロンドン没

ヘンデルは床屋兼医師の父のもとに生まれました。
父は彼を法律家にしたいと考えていました。
ヘンデルは父の目を盗んで、屋根裏部屋でクラヴィコードを弾いていたそうです。

隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)

1697年父が亡くなり、経済的支援も無くしハレ大学で法律を学びます。同時にハレ大聖堂のオルガニストとしての1年契約を結びます。
1703年どちらも辞め、ハンブルクへ出てヴァイオリニストとして採用されます。
1704年借金の取り立てを、避けるために逃げたヴァイセンフェルスに代わってオペラを作曲すると20回も演奏される大成功を収めます。

1704年のリブレット「アルミーラ」

1706-1710年にはフェルディナンド大公の誘いを受けイタリアに行っています。
スカルラッティ、コレッリに会っています。
ここでオペラ「アグリッピーナ」を発表すると人気になり27回も演奏されています。

1710年ハノーファー選定公の宮廷楽長になります。

1710年25歳のヘンデル
しかし、ロンドンに渡りオペラを上演した所、大成功し、一度はハノーファーに帰りますが、またロンドンに出掛け帰りませんでした。
そうこうする内にハノーファー公が1714年イギリス王ジョージ一世
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃
として即位します。

王の随行員として「王宮の花火の音楽」を上演したりしています。

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)

ロンドンは投機熱が高まっていて、ヘンデルは「王室音楽アカデミー」の中心人物として、ヨーロッパ大陸に渡り、歌手と契約したり、プロデューサーのような仕事をしながらオベラを上演しています。

ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンシェイクスピアの本が紙屑として売られています。

アカデミーでは
シルバーチケットを貴族たちは購入し、21年間オペラをフリーパスで聴くことができたそうです。
結局9年後、1728年破綻します。

しかしヘンデルはすぐに「アカデミー」を建て直し、イタリアの歌手と契約し直しオペラを上演します。

「貴族オペラ」が設立されヘンデルと競合します。
1734年「貴族オペラ」が倒産するまでその関係は続きます。
その年ヘンデルは脳卒中を起こし、半身不随になりますが、アーへンで温泉治療を行い、奇跡的に復活します。

その後後世に残る名作を多産しています。
しかし、当時はオペラブームが去っていて大流行することはありませんでした。
そんな中オラトリオ「メサイア」

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。1741年9月6日
をダブリンで発表すると起死回生の大人気になります。
ロンドンではあまり流行りませんでしたが…。

1749年には「王宮の花火の音楽」
アーヘンの和約を祝賀する1749年の花火大会
を、上演。
1950年に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。
収益を全額寄付しました。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となりました。

その夏、ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。 

その後ロンドンに戻りますが、1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、左目失明者となります。間もなく右眼の視力も悪化します。

そのような中で『イェフタ』を完成させますが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなりました。
その後も演奏活動だけは続けていました。

1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けましたが、失敗。
1759年4月74歳で亡くなりました。

ヘンデルは浮き沈みはありますが、音楽だけでなくビジネスとして音楽興行を成功させることにも長けていました。
亡くなった後、現在の貨幣価値で2億円以上の蓄財があり、高額絵画や調度が残されていたそうです。


『愛すべき野獣』(1754年)
ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーのカリカチュア[。
ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにしました。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていました。
1日に6回も食事をしていた時もあり、「この愛すべき野獣」は紛れもなく「豚」〜〜〜。

1735年作曲のオペラ「アルチーナ」
アルチーナは魔法の島に住む魔女です。
魔力で男を誘惑して島で暮らさせますが、自分が飽きると男たちを獣の姿に変えてしまいます。 

島に住む動物たちは、皆もとアルチーナの恋人です。

アルチーナの現在の恋人はルッジェーロ。
ルッジェーロには婚約者がいましたが、今はアルチーナの魔力のとりこです。

その婚約者ブラダマンテは男装し、
ルッジェーロの家庭教師で賢者のメリッソと共に、ルッジェーロ救出のために魔法の島に乗り込みます。

メリッソの力でアルチーナの魔力から解放されたルッジェーロは、
ブラダマンテへの愛を思い出し、
彼らと共に島を逃げ出します。

今まで自分から男を捨てるばかりだったアルチーナは、
初めて自分が捨てられる立場になります。
肝心の魔力も、本気で愛してしまったルッジェーロには効かず、
恋人の心を取り戻すことはできません。

アルチーナは悲嘆にくれ、「Ah! mio cor」(ああ!我が心よ)を歌います。

ああ! 我が心よ、
お前はだまされたのだ
星よ、神々よ、愛の神よ!
裏切り者! こんなにもあなたを愛しているのに、
私を一人、涙の中に残してゆくの?
ああ神よ、置き去りにされるのですか、
ああ神よ、なぜ?



柳の歌

2024-05-25 21:00:00 | ロマン派
バラが終わったので剪定。
バラを切るだけで午前中使いました。

薔薇の花は苗を弱らせるので種を取らないのなら、切らないといけません。
四季咲きなので、切り戻しておけばまた咲きます。
ほとんど何もお手入れしませんが、選定だけはきっちりしないと、花が咲きません。

代わって、小さな鉢てすが、メキシコハコヤナギが咲いてきました。

この鉢、白い花だけだったはずですが、なぜかピンクの花も…。
ハコヤナギと言っても柳ではなく、ミソハギ科。
そしてどの資料を見ても耐寒性が無い、5度以下で枯れると書いてあります。
5度以下になって、葉もなくなり枯れてしまったかと思っていましたが、復活。
得した気分です。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813-1901年)フランス帝国タロ地区レ・ロンコーレ生まれ(現イタリア)、イタリア王国ミラノ没

ヴェルディの肖像(J.ボルデイーニ作)(1886年)
1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられます。

早速ミラノに行き話し合いを行いました。
しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結びませんでした。

そこでリコルディ
ジュリオ リコルディ(1840-1912年)楽譜出版リコルディ社の社長(1888年より)
は一計を案じ、ボーイト

アッリーゴ・ボーイト(1842-1918年)詩人、台本作家、音楽評論家
と共作で『シモン・ボッカネグラ』改訂版制作を提案しました。

大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演を行いました。

この公演はかつてとは打って変わって大盛況を得ました。
1879年、イギリスの雑誌『バニティ・フェア』に掲載されたヴェルディの肖像。
そして『オテロ』は動き始めましたが、なかなか順調に物事は進みませんでした。

リコルディとボーイトがサンターガタ
を訪問し台本を詰めました。

しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けます。

さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、

ワーグナー(1813-1883年)
「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き、ヴェルディは沈みました。

彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもありましたが、その才能は認めていました。

そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せませんでした。

それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかりました。

ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組みした。

特にヴェルディは登場人物「イアーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていきました。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成しました。

1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演しました。

スカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立ちました。

歌劇「オテロ」
ウィリアム シェークスピア(1564-1616年)イングランド王国ストラスフォード アポン エイボン生没

の、悲劇「オテロ」によります。

15世紀のキプロス
人々が勝利を待ちわびる中、イアーゴ
イヴェルディのオペラ「オテロ」でイアーゴを演じるフランス人バリトン、ヴィクトル・モーレル
は昇進したカッシオへの嫉妬を募らせています。
酒に弱いカッシオ

を酔わせて、暴力沙汰を起こさせます。
そこへトルコ艦隊に勝利したオテロ


オテロに扮したマリオ・デル・モナコ

オテロの帰還1799年
トーマス ストサード
が凱旋し、カッシオを罷免します。

イアーゴはオテロの愛妻デズデモーナ

デズデモーナ役ポーリン ヴィアルト。
に取りなしを頼めと助言。
庭で2人が話している所をオテロに見せ、不倫をしているように思わせます。
その後、デズデモーナがカッシオの復職を頼みますが、オテロは心中穏やかではなく、断ります。

イアーゴの妻はデズデモーナのハンカチをひらいます。イアーゴをそれを取り上げ、持ち去ります。

またしてもイアーゴにそそのかされ、カッシオの様子を遠くから見ています。
カッシオを友人と他の女性との恋を話していますが、遠くてよく聞こえないオテロはデズデモーナとの恋話しと誤解しています。

そのうち、イアーゴが仕込んだデズデモーナのハンカチを取り上げ、イアーゴをからかいますが、オテロはすっかりデズデモーナとの不倫の証拠を見たと確信してしまいます。

そしてイアーゴがカッシオを殺し、オテロはデズデモーナを殺すことにします。

イアーゴの策にのるオテロ

そのうち、使者が来てオテロのヴェネツィアへの帰還が決まり、後任はカッシオになったと告げます。

嫉妬に燃えるオテロはデズデモーナを殺します。

1803 年の劇オセロとデズデモーナ。第五幕第二場。

そこへ「カッシオがロデリーゴを殺した!」と声が聞こえてきます。
イアーゴに殺人を頼まれたロデリーゴは返り討ちにあったのです。

人々がオテロのもとへやってくるとデズデモーナが殺されているのを発見します。

イアーゴの妻が「夫がハンカチを取り上げ、仕組んだ。」と話し、オテロは絶望し、自らの身体に剣を刺し、デズデモーナに接吻を求めつつ絶命します。

デズデモーナがオテロに責められ、死を予感しながら歌う

「柳の歌」
The poor soul sat sighing by a sycamore tree,
哀れな娘はサカモアの木のそばに座り、ため息をつきました。

Sing all a green willow: 
歌って、みんな、緑の柳よ

Her hand on her bosom,her head on her knee,
胸に手を当て、頭を膝において

Sing willow,willow,willow: 
歌え、柳、柳、柳

The fresh streams ran by her,and murmur'd her moans; 
清い流れが、嘆きを低く呟く、彼女の傍を、

Sing willow,willow,willow; 
歌え、柳、柳、柳

Her salt tears fell from her,and soften'd the stones; 
塩辛い涙が滴り、石さえも柔らかにする

Sing willow,willow,willow;
歌え、柳、柳、柳

Sing all a green willow must be my garland. 
歌って、みんな、緑の柳は私の花輪よ

I'd called my love false love,but what did he say? 
恋人を不実だと私は呼んだの、そしたら彼はなんて言ったと思う?

Sing willow,willow willow,
歌え、柳、柳、柳

If I court moe women,you'll couch with moe men!
俺が女たちと遊ぶなら、お前もたくさんの男たちと寝ればいい!