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旅の最後は屋台のコップ酒

2020-04-18 10:59:29 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 長崎港行きのフェリーが出る有川港に着いたのは15時を少し過ぎた頃でした。


 フェリーの出航時間は16時40分なので、この時はまだ、もう少し、有川周辺をドライブしようと考えていました。


 取り敢えず、有川港にある鯨見山に登ることにしました。


 私をその気にさせたのは、「鯨見山→」の表示の下に「資生堂 椿の森」を見たからです。


 そもそもの話、今回五島に来たのは、日本ツバキ協会主催のサミットが五島市の福江で開催される予定だったことが旅の動機でした。


「椿の森」を目にしたからには、素通りするわけにはいきません。

 


 有川の鯨見山は、高さが百メートルにも満たない小山です。

 


 解説板に、


 「有川湾では、江戸時代から明治時代まで捕鯨が行われ、元禄11(1698)年には83頭が獲れ、「鯨一頭で七浦が潤う」と言われた頃の繁栄を物語る。

 鯨山の頂などに「山見小屋」が置かれ、そこから鯨が来たことを知らせ、出漁の合図などを行っていた」と記されていました。


 鯨見山に登ると、遊歩道の周囲に、ツバキの苗が植えられた幾つかのスペースを見かけました。


「椿の森」の企画は始まったばかりのようです。

 


 頂上に登り、北の方角を望むと、数時間前に訪ねた津和崎辺りの島影が五島灘に浮かんでいました。

 


 鯨見山を下ると、駐車スペースに接した、角を生やしたような、奇妙な鳥居に足を向けました。


 鳥居近くに掲げられた説明文に、


 「この怪童神社の鳥居は、昭和48(1973)年に捕獲されたナガスクジラの顎の骨で作られ、捕鯨で栄えた有川地域を象徴する」の旨が記されていました。

 


  鯨見山に登って神社を見学するうちに時間がだんだんと迫ってきました。

 

 もうこれ以上の見学は諦め、レンタカー会社に車を返し、土産物などを物色しながら出航時間を待つことにしました。

 

 


 定刻の16時40分に有川港を出航した船は高速艇でした。

 

 

 今回は福江に二泊しただけの短い旅でしたが、それにしては、あまりにも密度の濃い旅でした。

 

 明治元年の「五島崩れ」と称されるキリスト教徒弾圧や、それ以前の江戸時代、約250年間を潜伏キリシタンとして過ごしてきた人々の足跡をたどり、福江島岳地区のツバキ防風林が他に例を見ない規模であること、中通島北部では段々畑でヤブツバキを育成する様子などを見てきました。


 エンジン音がごうごうと響く船内で、全ての見聞を、ブログにまとめきれるだろうか? 


 私はそんなことをぼんやり考えていました。


 そしてフェリーは18時20分頃に長崎港に入り、

 


 下船後に、港の駐車場に停め置いた、東京から運転してきた自車に戻ると、波止場の周囲は夜の装いに姿を変えていました。

 


 そしてその数時間後・・・

 

 私は長崎から車を走らせ、博多のビルの狭間の、コインパーキングに車を停め、寝床を整え、近所の路上に灯りを灯す屋台の暖簾を潜りました。

 


 今夜の寝酒は、辛子を利かせた、おでん大根と、ぬる燗のコップ酒です。

 

 さすがに今夜はもう、腹いっぱい、胸いっぱいでした。

 

 


 ------- + + + -------

 

 「五島の世界遺産と椿」を訪ねる旅は、これにて終了とさせて頂きます。

 

 五島の旅の前後に、車に寝泊まりしながら、奈良と中国地方の梅を訪ねました。

 

 いつの日か、その旅もブログでご紹介したいと思います。

 

 旅から帰ると、世界中がコロナウイルスに侵され始め、今は外出もままならない状況です。

 

 皆様もどうぞご自愛のうえ、再び旅を楽しめる日が来るまで、今は可能な限りお籠り下さい。

 

 外は今雨が降っていますが、明日はきっと晴れるはずです。 

 

 ほどよい用心深さで、皆様どうぞお元気にお過ごし下さい。

 

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潜伏キリシタンの暮らしを垣間見る

2020-04-17 19:09:09 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 津和崎灯台から戻るとき、車窓に見えた米山教会に寄ってみました。

 


 米山教会は上五島にある29の教会の最北端に位置しています。


 最初の聖堂は1903(明治22)年に建立されましたが、信徒の多くが海岸付近に居を構えるようになったことから、1977(昭和52)年、集落のほぼ中央の場所に新しい教会が建立されたそうです。

 


 津和崎集落に「国選定 重要文化的景観 北魚目の文化的景観」を解説する掲示が掲げられていました。

 

 

その概要は、

 

「津和崎は、海岸沿いから山の斜面のふもと付近にかけて家屋が集中する北魚目の典型的な漁業集落です。

 

 米山は寛政期以降に大村藩外海地方からの農民移住によって開かれた集落で、山の東、北東斜面に形成され、平地はほとんどなく、家屋は点在し、その周囲に耕作地が展開します。


 この地区では、上五島にもともと住んでいた人々と外海地方から移住してきた人々の両方によってもたらされた歴史が夫々の集落形態を示す、特徴ある景観です。」


と記されていました。


 そういえば、米山に教会がある一方、津和崎には教会がなく、現在も住職を隣島の明覚寺から招き、更に津和崎漁港に恵比須神社を祀っていることが夫々の集落の歴史的背景を物語ります。

 

津和崎漁港の恵比須神社

 

 米山教会の次に赤波江教会に向かいました。


 前々回のページに記したように、赤波江教会は山裾の斜面が海に落ち込む急傾斜の地にあります。

 

 
 県道32号を南下すると、仲知教会を過ぎた辺りで、赤波江教会へ導く標識を確認しました。

 


 標識に従って県道を左折するとすぐに、道は斜面を下り始めました。


 
 傾斜を緩める為、斜面を横切りながら進む道の空は、木々の枝葉で覆われていました。

 


  道路下に民家が覗く場所に出ると少し視界が開け、その場所から、海の向こうの山腹を横切る道路が見えていました。


 3枚上の赤波江教会の写真は、あの道路から現在地辺りを見た光景のはずです。

 

 

 その場所から数十メートルも進むと、赤波江教会が午後の陽射しの中で朱色の屋根を輝かせていました。

 


 周囲は不思議な静寂に包まれていました。


 風にそよぐ木立の葉音もなく、波の音すら聞こえてきません。


 教会に隣接する民家に人の気配はなく、瓦を乗せた庇が傾いていました。

 


 坂の下に見える家には、かすかに人の息吹が感じられます。

 

 

 赤波江教会の出入り口に掲げられた解説に、


 「赤波江教会は1884(明治17)年に初代教会が献堂され、現教会は1971(昭和46)年に献堂されたものである。


 この教会には、明治10年にフランス人の宣教師が初めて巡回したときの洗礼簿があって、それによると、当時の信者達が比較的自然条件に恵まれた平地と湧き水のある場所を見つけて移住したことが伺える。

 

 この地は急斜面で人を寄せ付けないほどに険しい山の中ではあるが、信仰を守るために移住してきたのであろう」

 

 と記されていました。

 


 県道からこの場所に至る道は簡易舗装されていましたが、そう遠くない昔は、車が入れない未舗装の道であったろうことが容易に想像できます。


 ネットで、県道32号を通う定期バスを調べると、津和崎から青方まで75分程かけて、一日4本のバスが片道運賃1320円で運行されています。

 通学定期は一ヶ月2万5千円でした。


 この地から高校へ通うのは、かなり大変なことでしょう。

 


 赤波江教会を訪ね、信者が暮らす様子を肌身で感じることができました。

 

 そして私は、潜伏キリシタンの人々が人目を避け、信仰とともに、修行僧のように暮らしただろうことを理解しました。

 

 一方私は、五島を離れるフェリーの時間が気になり始めていました。


 そろそろ、フェリーが出る有川港へ向かうべきかもしれません。


 そんなつもりで走り始めると、県道脇の、


 「五島・平戸領境界(仲知)」と題する掲示物に目が留まりました。
 

 

 

 その記載概要は、

 

 「貞和2(1346)年の記録によれば、松浦氏、青方氏による領地分にて、ここより北が平戸領となる。

 

 また、正和2(1645)年に、平戸藩、五島藩の間で中通島の境界の確認、制定がなされた。豊かな漁場と塩窯を持ち、古くから領地紛争が絶えなかったことが至徳2(1385)年、青方文書にも記されている」


 とありました。


 赤江波教会の信徒達は、厳しい地形に居を構えながらも、豊かな海に恵まれ、心豊かな暮らしを得ていたのかもしれません。

 

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ヤブツバキの段々畑

2020-04-16 10:06:57 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 13時半ごろ私は、津和崎灯台と表示された駐車場に車を置いて、赤いヤブツバキの散る散策路を歩き始めていました。

 


 100m程も歩くと、葉を落としたサクラの木の間に白い津和崎灯台が見えてきました。

 


 中通島の最北端を目指したのは、この場所にツバキ園がある情報を得ていたからです。

 

 灯台に近づくと、「現在地 」(赤矢印)が表示された地図が掲げられていました。

 


 海が見える右手の斜面を少し下ってみました。

 


 目の前の野崎島との間に、白い軌跡を残す船を浮かべる青い海峡が横たわっていました。

 


 白い灯台の周囲に、枝に赤い花を飾るヤブツバキが森を成していました。

 

 

 ところで、ツバキ園は何処にあるだろうかと、訝りながらツバキの中を散策すると、

 


 ツバキの茂みの中に「椿園 7ha」と記された表示板を目にしました。

 

 そうでしたか。


 津和崎灯台の周囲を囲むツバキの森こそが、椿園(椿公園)だったのです。


 椿園とは言っても、自生するヤブツバキの森を公園化したようです。

 

 自然公園と同じ主旨ですね。

 


  ところで、前ページに記した、石垣を積んだヤブツバキ畑らしきもの観察結果をまとめておこうと思います。


 津和崎灯台からの帰路、石を積んだ段々畑にヤブツバキが育つ様子に着目した観察を行いました。


 最初に紹介するのは立串郷の小瀬良教会下の斜面の様子で、石を積み上げた斜面にヤブツバキが葉を広げていました。

 


 少し近づいて写した写真では、段々畑のように石垣を積んだ場所にヤブツバキが一列に並ぶ様子が分かります。

 

 この場所をグーグルマップの写真で確認すると、長方形に区切られた場所に、木が一列に並ぶ状況が確認できます。

 


 その少し先の、立串郷の北東向きの斜面の様子です。


 この場所も、横一列にヤブツバキが並ぶ場所は、明らかに人の手によって自然石が積まれた様子を認めました。

 


 そして白草峠を越え、奈摩湾に下る途中で目にした、石垣で整地された畑にヤブツバキが育つ様子です。

 

 

 この光景は、東海道線の窓から見える、熱海辺りのミカン畑の風景そのものです。

 
 上に示した場所以外にも仲知(チュウチ)地区で見た畑は、一番下は道路工事で積んだ石垣ですが、その上は自然石が積まれた階段状になっていました。

 


 以上のように状況証拠だけからの推測ですが、自然石を積んだ、段々畑状のものは、ヤブツバキを育てる為の「畑」の可能性が極めて高いと考えます。


 ミカン畑が転用された可能性を考えた場合、ミカンの主要なマーケットである大阪や東京からの距離は、和歌山や静岡の産地とは競争にならない程の運送費が必要になります。

 

 また、この地区から博多や長崎へ搬出する港にミカンを運ぶことの労力も大きく、そのことを考えれば、ミカンや他の果樹畑を転用した可能性はかなり薄いように思われます。


 他の可能性として、野菜などを育てる為の石積みの段々畑が、人口の減少に伴ってヤブツバキ畑に変化したことが考えられます。


 そのいづれにしても、ヤブツバキを育て得られるツバキ油は、販売価格に占める運送費が軽微ですから、他に有用な換金作物がなければ、実の採集と搾油以外に殆ど人手を必要としないヤブツバキの育成は、多くの労力を掛けて石を積んだ段々畑を活用するに値するはずです。


 以上のことから、ヤブツバキを育てる為に石を積んだ、あるいは転用したかに関し、地区住人の聞き取り調査は必要ですが、殆ど平地がない当該地域の段々畑に育つヤブツバキは、この地域ならではの地理地形に適応した人々の、社会生活の特徴を示す貴重な文化的景観であると考えます。

 

 そして勿論、そのような背景に、潜伏キリシタンが弾圧を逃れ、あえて人里離れた場所に居を構えた、この地域ならではの歴史的経緯が影響しているであろうことは言うまでもありません。

 

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中通島の自然と人々の暮らし

2020-04-14 16:11:42 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 白草峠を越えた辺りで興味深い光景に気付きました。


 峠道を蛇行しながら下っていると、段々畑のように石を組んだ場所にヤブツバキが植えられているように見えるのです。

 


 路肩に車を停め、状況を確認しました。


 ヤブツバキは、まるで和歌山や静岡県のミカン畑のように、階段状に石を積み上げた斜面に葉を茂らせていました。


 ヤブツバキがこのように育つ状況を私は見たことがありません。


 この場所はヤブツバキの為の畑か、あるいはミカン畑などの跡地にヤブツバキを植えたかのように見えます。 

 


  これは面白い! 

 

 今まで数多くのヤブツバキ林を見てきましたが、ヤブツバキは岩や礫が露出するような斜面にも平気で育ちますので、これ程までに人の手を掛けた場所にヤブツバキが育つ様子は見たことがありません。
  

 勿論、他の作物畑にヤブツバキを植えた可能性もゼロではありませんが。

 

 そんな景色の中を走っていると、目の前に番岳のピークが見えてきました。

 


  番岳は標高442mで、中通島で最も標高の高い山です。

 

 以前、福江島の権現山の記事を書いたとき、中通島を主とする山も調べましたので、標高300m以上の山々を以下に列記しておきます。


 これらの山を訪ね歩く人が増えれば、あの「玉之浦椿」のような名椿が再び見つかるかもしれないと、そんなことを考えます。

 

 ヤブツバキが繁茂する自然林は日本以外に存在しませんから、日々の暮らしの中でツバキを見る楽しさを、多くの人に知ってもらいたい思いがあります。

 

 生まれてきた場所、その時々を精一杯に楽しむことが、人生そのものと思うのです。

 

 生まれてきた日本でしか出来ないことを精一杯に楽しもうではありませんか。 でなければ勿体ない。

 

 番岳 442m 中通島:新魚目町
 三王山雄岳 440m 中通島:上五島町荒川郷三王山133
 高熨斗山(たかのしやま) 430m 中通島:上五島町奈摩郷
 三王山雌岳 403m 中通島:奈良尾町
 矢倉岳 384m 中通島:有川町
 丹那山 369m 中通島:新上五島町江ノ浜郷
 魚目番岳 368m 中通島:新魚目町
 多石山 362m 中通島:新魚目町
 三峰山 343m 中通島:有川町
 飯盛山 337m  中通島:有川町
 黒木山 335m 中通島:有川町
 桜ケ岳 330m 中通島:有川町
 藤嶽 330m 中通島:有川町
 扇山 330m 中通島:奈良尾町
 小番岳 313m 中通島:新魚目町
 遠見番岳 308m 中通島:奈良尾町
 天神山 307m 若松島:若松町

 

 振り返ると、セルリアンブルーの海を抱え込んだ小串鼻の岬が見えていました。


手前の斜面には、ヤブツバキを主とする照葉樹林が、のびやかな陽の光の中で、二酸化炭素を取り込みながら緑の葉を茂らせています。

 


 私は対馬暖流の恵みに満ちた五島灘を眺めながら、午後の柔らかな陽射しに包まれる中通島の北端に向かって走り続けました。

 


 山の斜面にポツンと一軒家が、柔らかな陽射しを受けて、ナノハナを滴らせていました。

 

 
 そんな県道32号が、海に崖を落とし込む道に導かれて進んでいると、丁度南斜面に差し掛かった時、車窓に一瞬、通り過ぎてきた辺りの光景が視野に入りました。


 そして私は、急峻な斜面に、赤い何かが見えたのを見逃しませんでした。

 

 
 ブレーキを踏み、ギアをバックに入れ、車を10m程も後退させて、カメラをズームすると、信じられない場所に、赤い屋根の教会らしき建物を見出したのです。

 


 帰路に立ち寄り、これが赤波江教会であることを確認しましたが、今グーグルマップで見ると、この下の海岸に数10mほどの小さな護岸に守られた船寄せ場があって、漁船らしき3~4隻の船影を認めます。


 しかし、車が海岸まで進めそうな道はなく、人が歩いて通れそうな小道を認めるだけです。


 獲った魚は人が背に担いで登るのでしょうか


 山の斜面は全て木が茂る森に包まれ、漁業以外に生計を立てることはできそうもなく、この小道が命を支えることになります。


 私は2014年にネパールを訪ね、信じがたい急斜面にへばり付く山村に驚きましたが、赤波江教会の周囲に点在する民家はそれに匹敵するものでした。


 それにしても、人間の持つ潜在能力や可能性にはただただ驚かされるばかりです。

 

 

 ちょっと蛇足ですが、グーグルマップの写真で、赤波江教会を表示し、海岸に下りる場所をズームしてゆくと、斜面の中に、十字架を掲げたような墓地が見えてきました。


 興味のある方は是非確認してみて下さい。

 

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奈摩湾を見下ろす丘の教会

2020-04-12 20:49:39 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 

 

 奈摩湾を見下ろす斜面に建つ冷水教会は、前回の大曽教会を手掛けた鉄川与助が27歳の時、 1907(明治40)年に、棟梁として初めて設計施工した教会として知られています。


 この教会が冷水にできる前は、信者達は対岸の青砂ヶ浦天主堂へ伝馬船を漕いでミサに通っていたそうです。


 冷水教会の敷地から奈摩湾を見下ろすと、対岸の青砂ヶ浦までは結構な距離です。


 この海を手漕ぎの伝馬船で往復していた信者たちの信仰心が見えてくるような景色でした。

 


 冷水から対岸の青砂ヶ浦までは、通常であれば陸路は4~5㎞程ですから、次の目的地の青砂ヶ浦教会まで車で10分程ですが、途中の県道が土砂崩れで通行止めだったので、一度青方まで下り、県道32号経由で青砂ヶ浦を目指しました。


 ナビのガイドのままに走っていると、丸尾教会を案内する標識が見えたので、寄っていくことにしました。


 丸尾地区を見下ろす丘の斜面に、青空を背にした白い教会が、尖塔に十字架を掲げていました。


 丸尾教会を説明する掲示には「この地区は島内の他地区同様、迫害の嵐を避けて外海地方から移住してきたキリシタンの子孫で1899(明治32)年まで通称「家聖堂」と呼ばれる信徒集会所があり、20戸ほどの信徒の礼拝堂を兼ねていた」と記されていました。


 現在の教会は1928年に創建され、1972(昭和47)年に改修されたものだそうです。

 

 

 周囲に、どこにでも見られるような、ごく普通の住宅街が軒を並べていました。

 

 
 丸尾教会から数分で青砂ヶ浦(あおさがうら)教会に到着しました。


 この教会は、長崎県下で多くの教会建築を手がけた鉄川与助が、1910(明治43)年に設計施工した煉瓦造りの聖堂で、2001(平成13)年に国の重要文化財に指定されています。

 

 
 1879(明治12)年ごろにあった小さな集会場から、3代目に当たる現教会は、外壁がイギリス煉瓦積(長手と小口を一段置きに積む様式)で、ステンドグラスに飾られた円形のバラ窓や縦長のアーチ窓、そして正面入口左右に、柱頭に葉形装飾を施した円柱などが設けられていました。

 

 

   
 私は、旅を終えた後に知ったのですが、何とこの教会が、あの「男はつらいよ」第35作のロケ地となっていたそうです。


 第35作では、寅さんが五島に渡り、島で知り合ったクリスチャンのお婆ちゃんが突然亡くなります。

 そしてその葬儀に参列した、東京で働く孫娘(樋口可南子)と、彼女に恋焦がれる、司法試験に挑戦する民夫やその周囲の人々が織りなす涙と笑いの寅さんワールドが展開したそうです。


 教会の前庭から青砂ヶ浦漁港を見下ろすと、鏡のような奈摩湾の奥に、派生尾根を従えた高熨斗山の寛ぐ姿が見えていました。

 

 
 青砂ヶ浦教会を出た後、奈摩湾に沿って県道32号を北へ向かいました。


 車は、海岸からの高さが100m程もあろうかと思う道を進んで行きます。

 


 その辺りから、奈摩湾の湾口を挟み、さっき通ってきた矢樫崎とその先端のトトロ岩が見えていました。

 


  カメラをズームさせると、岬の中に冷水漁港と冷水教会らしき建物を確認することができました。


 ご覧のように、旅人の目から見れば、この辺りは長閑で心休まる景色そのものです。

 


 車は、中通島で標高が最も高い番岳(442m)と小番岳の鞍部を越える白草峠を走り、奈摩湾から、五島灘に面する島の東側に抜けました。


 とは言っても、この辺りの島の幅は2㎞にも満たないので、首を数回傾げる程の時間だったのですが。

 

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中通島 穏やかな海の景色と教会

2020-04-11 18:03:25 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 通島南端の奈良尾から国道384を北上し、中ノ浦教会を訪ねました。


 五島の中通島と若松島の間に複雑に入り組んだ若松瀬戸。


 その若松瀬戸の笛吹浦から更に入り込んだ中ノ浦の海辺に白い教会が建てられていました。


 冬に西風が吹き荒れる季節であっても、教会が波に洗われることはないのかもしれません。


 海岸に接しながらも、汚れの目立たない白壁がそう思わせます。


 明治初年に潜伏キリシタンが信者であることが明らかになるまで、信徒に波が及ぶことはなかったかもしれないと、そんな風に思えるほど長閑な景色の中に教会は佇んでいました。

 


 笛吹浦は峰々に周囲を囲まれ、高原の湖のような穏やかな表情を見せています。
 

 

 青い空に白い雲が浮かび、私は海岸沿いの道をのんびりと走り続けました。

 


 若松瀬戸の北端に位置する道土井湾に面する丘に向かい、国道384から、民家の間の細い道を数100mほども入った場所に、真手の浦教会がありました。


 静かな漁村に溶け込む教会に、潜伏キリシタンの不安感を想わせるものは見い出せません。


 人々の日々の祈りの場であれば、これが教会としての、本来の姿なのでしょう。

 


 更に国道384を北へ走り、中通島西海岸の中央部に位置する青方港を見下ろす丘で、大曽教会が陽を浴びていました。

 


 現在の建物は、中通島の青方村に生まれ、長崎県下に多くの教会を建設した鉄川与助が1916(大正5)年に設計施工し、平成19(2007)年に県の有形文化財に指定されています。


 教会の外壁には、レンガの凹凸や色の違いを装飾に用いる工夫が見られると、掲げられた解説に記されていました。
   

 

 

 大曽教会を見学した後、そのまま中通島の西海岸を北へ向かいました。

 

 それにしても、車の窓から見える海の青さが秀逸です。

 


 ですが、道が次第に心細い状況となり始めていました。

 


 ナビの画面右側に、高熨斗山(たかのしやま)の▲印が示されました。


 高熨斗山(標高430m)は、番岳(442m)三王山雄岳(440m)に次いで、中通島では三番目に高い山で、高熨斗とは高いのろしを意味するそうです。


 山名は、上五島が遣唐使船の寄港地であったことから、この付近で狼煙(のろし)を上げたことに因ると説明されています。

 
 高熨斗山の山麓をのんびりと走り進みました。

 

 

 もうかれこれ40年程前の記憶ですが、北海道の暑寒別岳の麓を増毛から石狩へ抜けたことがあります。

 

 あの頃、暑寒別岳が日本海に迫る場所の国道231号はこんな景色だったことを想い出していました。

 

 今は日本中どこへ行っても、山が海岸に落ちる場所では、崖の中にトンネルが穿たれ、安全に早く通れますが、味気なさは隠しようもありません。


 私はやっぱり、新幹線で移動するより、のんびりとした鈍行列車の旅が性に合っているようです。

 

 高熨斗山の北に伸びる半島を進んで行くと、やがて眼下に矢樫崎のトトロ岩が見えてきました。

 

 

 次の目的地の冷水教会は、もうすぐのようです。

 

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奈良尾のアコウ

2020-04-10 18:35:58 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 中通島の奈良尾へ渡る、朝8時のフェリーに乗るため、7時頃にゲストハウスを出ました。


 ゲストハウスから福江港までは1km程なので、時間は十分にあります。


 東へと歩み行く空に、顔を出したばかりの太陽が、今日の天気を約束していました。

 

 
 市内を流れる福江川の橋から大きな寺が見えました。


 確認すると、市の中心部に位置する観音寺です。


 潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録されたので、キリスト教会に目を向けがちですが、目の前に聳える寺の大きさを認識すれば、人里離れた地に建つ教会の意味を、正確に理解できます。

 


 人通りの少ない市街を歩くと、アーケードに植えられたツバキの一株が「玉之浦椿」であることに気付きました。


 散り落ちた花の美しさに足を止めてレンズを向け、シャッターを押しました。

 

 


 中通島へ渡るフェリーは、福江港を定刻通りに出発しました。

 


 船は港を出て、穏やかな海へ進んで行きます。

 


 昨日登った鬼岳が視界から次第に遠ざかります。

 


 蠑螺島(サザエシマ)らしき島を照らして昇る太陽が、印象派の絵のような光景を見せくれました。

 


 ツブラ島や椛島(カバシマ)などが次々と現れ去ってゆきます。

 

 
 そして約1時間後、航路の先に中通島の奈良尾港が見えてきました。

 


 港に降りると、タラップの先でレンタカー会社の人が出迎えてくれました。


 事務所で、ネット予約した通りの手続を終え、ナビに目的地を入力し、車をスタートさせました。


 それにしても便利な世の中になったものです。


 数千㎞離れた自宅からネット予約すれば、一日4~5千円で自由に車を使えるのです。


 私が中学生だった1964年の東京オリンピックの頃、庶民が車を乗り回すことなど、夢のまた夢の話でした。


 それを思うと、この先50年、どんな世界が待っているかは想像もできません。


 その頃私は、この世には居ない筈ですが、このまま平和が続くことを、ただただ祈るばかりです。


 思いもよらぬ新型コロナの蔓延を目の当たりにして、世の中、何が起こるか分からないことを再認識させられました。

 

 車はナビで、奈良尾港裏手のトンネルを抜け、民家が建ち並ぶ細い路地に導かれました。
 

 

 そして、その路地奥に、奈良尾のアコウが待っていました。


 1961年に国の天然記念物に指定された奈良尾のアコウは、樹高25m、幹回り12mの巨木で、西暦2000年時点で、樹齢が650年と推定されます。


 昨日、福江島で玉之浦のアコウと樫ノ浦のアコウを見ましたが、奈良尾のアコウも見る者を圧倒するパワーを秘めていました。

 

 この木が生まれたのは室町時代で、ヨーロッパではペストが猛威を振るい、人口が減少した頃のことです。

 

 

   
 奈良尾神社の参道をまたぐように聳えるアコウ樹は、今にも動き出しそうな気配を見せていました。

 

 


 明日をも見通せない人の世と、650年の歳月を経てもなお、旺盛な生命力で生きるアコウ樹。

 

 人の力が及ばないものがあることを想います。

 

 だからこそ、カゲロウのような人生でも、屋久杉のような人生でも、その時々に与えられた場所で精一杯に生きて泣き笑い、謳歌する。

 

 人生とは、ただそれだけのことと思い定めることにしています。

 

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