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周防と山口の梅、そして五色八重散椿

2020-06-30 16:34:10 | 西日本に梅を訪ねて

 

 冠山総合公園梅の里を10分ほどで切り上げて、防府天満宮へ向かいました。


 今日はこの後、山口市内の梅などを観て、萩へ向かう予定です。

 

 萩も見どころが多いので、15時ぐらいには着きたいのですが、時間が足りなくなってきました。


 そこで、旅の途中ではめったに使わない高速道路を利用し、先を急ぐことにしました。


 防府東インターを降りて市内へ向いましたが、落ち着きのある街並みがが車窓に映し出されました。


 ウィキペディアに因れば、周防市は防府天満宮を中心に栄えてきた都市だそうで、石畳の道が見えていましたが、防府天満宮への参道なのでしょうか。

 

 ナビのガイドのまま天満宮に近づき、駐車場への矢印を確認しつつ天満宮裏手のパーキングに車を停めました。


 境内には16種類1100本の梅が植えられているそうです。

 

 冠山の梅園より少し遅目の花が枝を飾っていました。

 


 以前の社殿は1952年に焼失し、1958年に完成した現社殿は、2009年に有形文化財に登録されたそうです。

 


 境内を見て、参道に続く石段が立派でしたが、毎年11月に行われる御神幸祭(ごじんこうさい)は、1トンもある御網代(おあじろ)を引っ張って階段を下り、帰りに階段を引っ張り上げるという危険な祭りだそうで、毎年怪我人が絶えないようです。


 この階段には、人を危険な行為に駆り立てるような、何かが潜んでいるようにも見えます。
 


 周防市から山口市郊外の両足寺へ向かいました。

 


 両足寺は「もみじ寺」とも呼ばれ、秋に多くの観光客を集めますが、この寺に樹齢300年を超える五色八重散り椿があるとの情報を得ましたので、今回はそれを確認する為の訪問です。

 

 人気のない参道を歩き、寺に近づいて行きました。

 


 すると石段を登り切った正面に「五色八重散椿」の掲示を伴う木を見つけましたが、花はありません。

 

 


 しかし本堂へ近づくと、もう一本の「五色八重散椿」が見えてきました。

 

 
 そして、その木に花を認めることができました。


 椿を訪ねるには早すぎるタイミングでしたが、花を見ることができて幸いでした。

 

 


 一般的にツバキは、花の花弁が塊となって落ちますが、このツバキは花弁が一枚一枚離れて散りますので、日本原産のヤブツバキに中国などからの別のツバキ植物のDNAが交じっているのでしょう。


 戦国時代、この地を治めた大内氏が明との貿易を独占したことを合わせ考えると、この地で五色八重散椿が花を咲かせながら、歴史を物語っているようにも見えます。

 

 

 

 次に山口市街に入り、古熊(ふるくま)神社を訪ねました。


 古熊神社は菅原道真とともに道真の子の菅原福部童子を配祀します。

 


 福部童子は11歳のとき、父を慕って太宰府へ向いましたが、山口で夏病みにかかり亡くなりました。

 

 古熊神社は京都の北野神社の勧請を受けて1373(応安6)年に創建され、1618(元和4)年に毛利秀就が今の場所に社殿を移したそうです。

 

 参道の両脇に、薄桃色の梅がちらほらと花を咲かせていました。
 


 本殿と拝殿は大内文化を今に伝える建造物として、国の重要文化財に指定されているとの解説が掲げられていました。

 


 参道の石段の上から山口市街が見えていました。


 山に挟まれた盆地に川が流れ、その川に沿って、落ち着きのある佇まいを見せる山口の街が、西の京都と称されるのも頷けます。
 

 

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山口県光市の梅林(冠梅園)など

2020-06-29 16:01:43 | 西日本に梅を訪ねて

 

 岩国から柳井市を経由して光市方面を目指しました。


 ナビには目的地が5っしか登録できません。


 幾つかをクリアする毎に、次の目的地を入力しながら旅を続けてきました。


 出発前に用意した旅の工程表を助手席に置いて、そこに記された住所を、順にナビへ入力してゆきます。


 工程表は一筆書きが原則ですが、地理感のない場所は、現地に着いてから、ナビにルート選定させて効率的なルートを考えます。


 この時もそのようにしましたが、煩雑な作業はミスを生じるものです。


 工程表の「余田臥龍梅」を見落とし、帰路にフォローすることになります。


 車窓に瀬戸内の海を見ながら岩国から国道188号を進み、柳井市の山口フラワーランドを目指しました。


 山口フラワーランドは、山口県の花き振興を図る目的で整備された花と緑の公園です。

 

 このような施設は全国各地にあって、農家の花き栽培技術研修や展示が主な目的です。

 


 入園窓口で、「今はどんな花が咲いていますか」と尋ねますと、「ナノハナとパンジーが咲いています」の答えでした。


 入園口のエントランスには、鉢植えのパンジーなどが飾られていました。


 特に珍しい花が咲いている訳でもなさそうです。


 窓口に掲示された入園料510円を確認し、「また寄らせて頂きます」と言って車に戻りました。

 


 山口フラワーランドから冠山総合公園梅の里を目指しましたが、着いた所は、普賢寺という古刹の近くでした。


 地方ではよくあることですが、ナビに住所を入力すると、ナビのお姉さんに「住所が見あたりません、主要な住所でご案内します」と告げられました。

 

 そして、その結果辿り着いたのが普賢寺付近だったのです。


 普賢寺の境内で「山口県指定名称 普賢寺庭園」の掲示を目にしました。


 雪舟が築庭したと伝承される枯山水だそうです。


 普賢寺は1006(寛弘3)年に性空上人の開基であると伝わり、以下の写真の仁王門は1798(寛政10)年の建立だそうです。

 

 なかなかに、見ごたえのある古刹でした。

 

 

 


 普賢寺を後にして、13時頃に当初の目的地であった冠山総合公園梅の里の駐車場に車を停めました。


 現在地と普賢寺との位置関係は以下の通りです。

 

 
 冠山総合公園梅の里(冠梅園)は、100種2000本の梅が植栽された、山口県きっての梅園で、修景池から見上げた丘の斜面が薄桃色に染まっていました。

 


 しかし、此処へ来るまでに予想外の時間が掛かったので、丘に上るのは止め、次の目的地へ急ぐことにしました。


 駐車場へと戻る途中で、正面に笠戸島が見えていました。


 この島の「笠戸島ハイツ」はツツジの名所ですが、建物の老朽化で、2019年秋に笠戸島ハイツの解体が決まったようです。

 

 跡地をどうするかを検討しているようですが、ツツジを活かした再利用であって欲しいものです。

 


 ところで、ちょっと余談ですが、冠山総合公園梅の里に掲げられていた光市の観光案内図の「牛島のモクゲンジ群生地」に強い興味を覚えました。

 

 と言うのも、図鑑などには「モクゲンジの葉は鋸歯があって複雑な形になる」と記されますが、これって、もしかして異形葉性と呼ばれる現象の一つかもしれないのです。


 例えば「シナユリノキはユリノキよりも葉の切れ込みが深い」と説明されてきましたが、それは明らかに間違いです。 

 もしかするとモクゲンジでも同様のことが起きている可能性がありますので、それを確かめたいのです。

 

 一度気になると、確かめられずには居られません。

 

 必ず訪ね来ることになると思います。


 我ながら、何とも厄介な性分です。

 

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広島から岩国へ

2020-06-28 23:53:39 | 西日本に梅を訪ねて

 


 旅に出て三日目の夜、広島市内のお好み焼き屋に座り、生ビールを飲みながら、ネギ焼きとカキを味わいました。


 昨晩は90になる叔父と酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせました。


 午前中はゆっくりして、叔父との再会を約すと、昼前に和歌山県立植物公園に向かったのですが、月曜日であることをすっかり忘れていたので、植物公園の前に立って「本日休園」の表示を目にしました。


 多くの場合、殆ど全国の植物園や花公園は月曜日が休園ですから、こんな日は移動に当てるのが一番合理的です。


 という訳で、雨降る広島に夜遅く着いて、街中のパーキングに車を停め、久し振りに広島の味でも楽しもうと、お好み焼き屋の暖簾を潜った次第です。


 明日は、広島から岩国、山口を経て萩を目指すつもりです。

 

 


 広島市内で迎えた四日目の朝、雨も止んで、広島の街は職場へと向かう人で溢れていました。


 一方私は、ナビのガイドのままに、通勤する人とは逆の、郊外へ向かうルートに沿って、広島市植物公園に近い坪井町の観音寺を目指しました。

 
 広島市の観音寺は山陽花の寺二十四か寺の一つで、あじさい寺として名が知られています。

 

 一方、アジサイ以外にも約700種のツバキが植栽され、境内には樹齢400年の広島椿が花を咲かせます。


 寺の裏山がツバキ園の様なので、そちらへ足を向けますと、

 


 
 途中で、「夢」という名札を付けたツバキが花を咲かせていました。


 帰宅後に調べると、「獅子頭」と「攸県油茶」の交配種で、芳香のある早咲きで、11月~3月ごろに花を咲かせるようです。

 

 
 裏山で振り返ると、瀬戸内に浮かぶ、宮島らしき島影が見えていました。
 

 

 観音寺のあと、ちゅーピーパークに寄りましたが、開館が10時からなのと、梅の数もそう多くないそうで、今回はパスして、岩国市の錦帯橋へ車を走らせました。

 

 錦帯橋は橋の下の錦川の河原が駐車場になっていて、310円の入場料で橋を往復することができます。

 


 
 橋を渡りながら、橋脚部分で川を覗き込むと、川底にぎっしりと敷石が施されていました。

 


 その範囲は、橋が架かる約200mの川幅の上流20m、下流50mの河床全てに及ぶそうです。

 


  今回の旅は、梅に関する事前調査を行いましたが、錦帯橋にまで手が回らなかったので、橋を訪ねて始めて分った、橋を支えるために川底をまで整備した昔の人々の情熱に、深く感動させられました。


 そして多分、下の写真のような橋の両側の橋脚部にも、基部の石が地中で凸字形となっているかのような(分かりませんけど)緻密な工夫が隠されているのでしょう。

 

 
 橋では丁度、保全工事の足場を外す作業が行われていました。


 錦帯橋を次の世代に残す為に、たゆまぬ努力が続けられているようです。

 

 もう一度、橋が桜の花に飾られる頃に来てみたいものです。

 


 錦帯橋を錦見側から横山側へ渡り、吉香公園の梅を訪ねました。


 岩国藩主吉川家の居城跡が公園として開放されて、山頂の岩国城を背に紅白の梅が香を放っていました。

 


 公園の場所は明治13年から昭和43年まで旧制岩国中学校として利用されたことから、教材樹木もあって樹種は70を数え、樹齢100年を超える大木もあるそうです。

 
 公園の周辺に岩国藩家老 吉川氏の屋敷跡や剣豪佐々木小次郎の像などがあります。


 佐々木小次郎像は、吉川英治の小説「宮本武蔵」の中で、岩国出身と記されたことに因るのだそうです。

 

 
 ところで、吉香公園周辺を散策していると、門に「露蓮」の名を掲げた屋敷を見かけました。

 

 こんな時は右から左へ読み「ハスのツユ」を意味するはずです。


 とっさに蓮の葉で飲む蓮酒(像鼻杯)を連想し、懐に余裕のある趣味人のギャラリーだろうか、などと思ったのですが、後から調べてみると、何とここはガーデンカフェだったのです。

 

 安政年間に建てられた、160年を経た建物のようです。

 

 

 11時開店だそうで、もう少し遅く行けば、ここで美味しいコーヒーが楽しめたかもしれません。

 

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大日川梅林 賀名生梅林

2020-06-27 16:20:44 | 西日本に梅を訪ねて

 

 広橋梅林の見事な梅の景色に心満たされ、鼻歌交じりで五条市の賀名生(あのう)梅林を目指しました。

 

 奈良盆地の南側の壁となる、紀伊山地北辺の斜面を下ります。


 その先の吉野川に沿って五条市へ向かうつもりだったのですが、ナビは途中から左手の山の中へ車を導きました。


 県道20号の樺の木峠を越え、紅葉川に沿ったルートを進んで行きます。


 緑あふれる渓谷の中で、左右へのカーブを繰り返しながら30分程も走ると、県道が国道165号と合流する五条市西𠮷野城戸に出ました。

 

 思わずあっと声を上げました。

 

 この場所に見覚えがあります。

 

 数年前に西吉野町のフクジュソウ群生地を探し、この辺りの民家で道を尋ねた記憶が蘇りました。


 ブログを書きながら、PCのファイルを探すとその時の写真が出てきました。

 
 画像の日付は2018年2月17日で、下の写真がその時のものです。


 この時は残念ながらフクジュソウはまだ花を咲かせていませんでした。


 再度訪ねたかったのですが、場所の記憶が曖昧で、フクジュソウは午後に花を閉じますから、今回も群生地にフクジュソウが咲く様子を確認することはできませんでした。

 


 
 賀名生梅林は西𠮷野城戸から丹生川に沿って五条市方向へ4~5㎞程も下った場所ですが、そのすぐ手前の大日川地区にも見事な梅林風景が広がっています。

 

 実は2018年2月にこの地を訪ねた時、賀名生梅林の位置を確認する為、この辺りを探索していたのです。


 大日川地区の梅林が見渡せる場所へ車で上って行きました。

 


  広橋梅林同様に、いやそれ以上の急斜面の、実梅を育てるための段々で、実梅が枝々に白い花を咲かせていました。


 この地区は観光地化することを全く考えていないように見えます。


 植栽されたほぼ全ての梅が、白い花を咲かせる実梅ばかりでした。


 車一台ぎりぎり通れるような生活道路が急斜面を左右に横切りながら峰の上へと上ってゆきます。

 


  そんな場所から崖の上を見上げると、苔むした石垣の上に、一軒の梅農家の姿が見えました。


 目の前のこの急斜面で、梅を育てる作業が行われている筈です。


 生活用水はどうしているのでしょう。


 どのような経緯で、この地に暮らし始めたのでしょうか。


 梅の花に包まれる「綺麗な景色」を作り上げてきた村人達の歴史に思いが及びます。
 

 

 その場所で振り返ると、眼下の梅畑の先に、先ほど走り抜けてきた、樺の木峠近辺の尾根の連なりが午後の陽射しの中に見えていました。

 


 大日川地区の梅林の中を下る途中で、斜面の中に小さな寺院の姿を認めました。

 
 急斜面に点在する家々に暮らす人々は、お盆や年の瀬になると、この寺に集い、声かけあって梅を育ててきたに違いありません。


 寺は杉木立を背に、ほのぼのとした雰囲気を漂わせていました。

 


 大日川地区と尾根一つ隔てた賀名生梅林の入り口まで来ると、梅林に上る坂の入り口にゲートが設けられ、車両進入禁止の看板が掲げられていました。

 

 入り口の横の広場が駐車場だったので、その場に居た村人らしき人に話を聞くと、賀名生梅林へ上る道が崩壊した為、住人以外の車の進入を禁止しているとのことでした。


 梅林を見学する場合は、この駐車場に車を置いて徒歩で坂を登って下さいと言われました。


 「どれくらいの時間ですか」と聞くと「30分程です」との答えでした。


 最低でも1時間は必要ですが、現在は午後16時です。


 実は先ほど、ここから50㎞程も離れた場所に住む90歳の叔父に、近くへ来たので、今夜は一緒に酒を酌み交わしませんかと電話したばかりだったのです。


 子供の頃にお世話になった叔父は、私と酒を交わすのをとても楽しみにしてくれています。


 なので今日は、賀名生梅林を下から見上げるだけにして、ここから叔父の家へ車を走らせることにしました。
 

 

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「令和」の時代の梅の花

2020-06-26 00:22:47 | 西日本に梅を訪ねて

 

 馬見丘陵公園から奈良盆地を南下し、大和三山の一つである天香久山の麓の森林公園「万葉の森」へ向かいました。


 万葉で思い出しましたが、現在の元号「令和」名の由来は万葉集の「梅花の歌」の序文

 

 「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわ)らぎ」

 【意味:初春のお正月の良い月で、風は穏やか】

 

 であることは良く知られています。


 この万葉集の「梅花の歌」とは、大伴旅人が天平2(西暦730)年に、九州の大宰府の公邸に31人の客を招き、庭の梅を読む歌宴を催した時の「梅花の歌32首」を記したものです。


 つまり元号の「令和」は、今から1300年前に、大陸との外交や政治の要となっていた大宰府公邸で梅を眺めながら、梅の歌を読んだ記録を元に考案されたものなのです。

 

 このように「令和」と梅の花は、切っても切れない関係にあると言えます。


 そのような令和の時代に、大宰府の公邸に招かれた客になったつもりで梅の花を眺めれば、嬉しくも晴れやかな気分に身を浸すことができます。

 

 天平時代には貴人しか眺められなかった梅の花なのです。


 今回もまた、かけがえのないほどに贅沢な旅を楽しめそうな予感がします。


 馬見丘陵公園を出発して30分ほどで万葉の森に到着しました。


 小高い丘へ上る道の道路脇のパーキングに車を置いて、車道から土の坂を20m程も下ると、馬蹄形の谷の斜面に紅白の梅が花を咲かせていました。


 風の囁きも聞こえぬほどに静かな大和路の午後、2~3人のお年寄りがベンチに座り、微かに漂う梅の香を楽しんでいました。

 


 
 万葉の森を後に、次の広橋梅林を目指しました。


 前もって広橋梅林をナビに入力してありますので、ナビから聞こえるお姉さんの指示に従って車を走らせます。


 暫く走っていると、自然公園のような場所に差し掛かりました。


 道路脇の「高松塚古墳」と記された掲示物に気付き、100m程も進んでからUターンしてパーキングに車を停めました。

 


 古墳らしき地形の方へ歩き出しましたが直ぐに、此処も短時間で見学できるような場所でないと悟り、公園の一角に咲いた紅白の梅を写真に撮ると車に戻り、再び次の目的地を目指しました。

 

 

 今回ウィキペディアで「高松塚古墳」を調べますと、藤原京期(694年~710年)に築造された古墳から、1972年に極彩色の壁画が発見され、その壁画が1974年に国宝に指定されたと記されています。


 「高松塚古墳」という言葉は耳にありましたが、その内容を覚えていませんでした。


 この場所もまた「私が改めて来るべきリスト」に加えたのは言うまでもありません。


 それにつけても、奈良盆地は実に多彩です。

 

 イルカのように好奇心の強い人には、かなり危険な地かもしれません。
 

 奈良盆地南部の細い国道をはしり、サクラで有名な吉野山の西隣に位置する広橋梅林に14時半ごろに到着しました。


 広橋梅林は、月ケ瀬、賀名生と並ぶ奈良県の三大梅林の一つで、奈良盆地から和歌山市内へと流れ下る吉野川(和歌山県に入ると紀ノ川と名を変えます)を見下ろす、広橋峠北側斜面に梅林が広がっていました。


 遠くに見える山は右が葛城山、左が金剛山でしょうか。

 

 
 石垣を積んだ急斜面の段々畑に梅が紅色の花を咲かせ、その後ろに黒い森が広がっています。
 


 駐車場に車を停めて、梅畑の周囲を散策してみました。

 

 この場所で梅を育てる暮らしは、かなりの労力を伴うはずです。

 


 急斜面の中に、軽自動車でなければ通れない幅の小道が伸びて、その先に民家が見えていました。


 そんな小道の下斜面で、白梅が早春の柔らかな陽の光を浴びていました。


 谷を隔てた向かいの尾根に、鈍色の屋根瓦を乗せた寺院が見えています。


 本格的な一眼レフカメラを構えたカメラマン風の男女が盛んにカメラのシャッターを切っていました。


 広橋村のあちらこちらに、郷愁を誘う光景が散りばめられていました。

 

 

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奈良盆地西部の梅林

2020-06-25 00:28:23 | 西日本に梅を訪ねて

 

 月ケ瀬梅渓から県道80号を走り、奈良盆地東の笠置山地を抜け、奈良公園の鹿を横目に、平城京朱雀門の前を通り過ぎました。


 目的地は奈良の北西部に位置する大和文華館です。


 此処に70品種130本の梅が咲くという情報を頼りに車を走らせました。


 ナビに導かれながら住宅街の中の細い道を辿ると突然、門前に駐車場を設えた施設が現れました。


 受付の女性に、梅を目的に東京から訪ねてきたことを告げ、梅の開花状況を尋ねますと、


「梅林は門を入ってすぐ右の塀の裏側ですが、昨年梅の枝を大きく剪定したので、今年は殆ど花が咲いていません」と気の毒そうに説明してくれました。

 
 受付の場所からも塀越しに梅林の一部が見えますが、確かに花は殆ど咲いていませんでした。

 
 入園料が630円と表示されていたので、「門内の梅園の様子だけ、一目確認させてもらえないでしょうか」とお願いして見てきたのが以下の写真です。

 

 
 大和文華館は昭和21年に近畿日本鉄道社長の種田虎雄が設立した東洋古美術を中心とする私立美術館で、国宝4件、重要文化財31件、重要美術品14件が収集されています。

 

 美術館の周囲の文華苑とよばれる自然園に、梅林、三春の瀧桜、ササユリ、アジサイ、スイフヨウ、萩、サザンカ、ロウバイ、椿が植栽され、四季を通じて花を楽しむことができるそうです。


 今度来るときは、もっと時間に余裕を持ったスケジュールを立てたいと思います。

 

 

 

 大和文華館から西へ進み、近畿大学の近くに位置する追分梅林へ向かいます。

 

 追分梅林は2010年頃まで4000本の梅が咲く観光スポットでしたが、突然の土壌悪化で大半の木が枯死した為、2011年から農地改良工事を行い、現在も復活が図られています。


 ネット情報に因れば、600本の梅が植栽されたそうですが、面積が広い為か、花は疎らな印象を受けました。


 最盛期の姿を取り戻すにはまだ数年はかかるかもしれません。

 


  追分梅林から南へ下り、大和民族公園の梅林を訪ねました。


 大和民俗公園は大和郡山市の北西部に位置する県立公園です。

 

 コナラやクヌギを中心とする自然林が残る15haの園内に、江戸時代の民家が15棟も移築復元されています。

 

 民族博物館や花菖蒲園などが配置され、園内に四季を通じてナノハナ、サクラ、ツツジ、アジサイ、サザンカなどが花を咲かせるそうです。


 大和民族公園の「みんぱく梅林」では、約140本の白梅と紅梅が花を咲かせていました。

 


 
 大和民族公園では梅林だけを確認し、次の目的地の馬見丘陵公園へと向かいました。


 せっかく奈良まで来たのですから、民族博物館なども見ておかなければ勿体ないのですが、何しろ、この後の旅で五島列島のスケジュールがフィックスされていますので、この辺で気ままな時を過ごすことができません。


 いつものように、すべてを車中泊で企画すれば、臨機応変な対応ができますが、今回はそうもいきません。


 しかし、大和民族公園には花菖蒲園がありますから、何時の日かまた、ハナショウブが咲く頃に来ることになる筈です。


 次の目的地の馬見丘陵公園は二度目の訪問です。


 前回は2010年秋に馬見丘陵公園で「四季の花」に掲載する花の写真を撮ることが目的でした。


 



 その時は、露地植えのブータンノボタンペニセツム・セタケウムなどを撮影しました。


 馬見丘陵公園を訪ねるのは10年ぶりで、前回訪問時にほゞ全てを見て歩いたつもりですが、梅林の記憶がありません。


 今回、最初に公園事務所で梅林を確認すると、中央エリアの東外れ、カリヨンの丘に接する場所を教えられました。

 

 意識しなければ見落としそうな場所に梅林がありました。


 梅の木が若いので、もしかしたらと思い、ネットで確認すると、梅林のある一本松古墳周辺は2010年に開園し、梅園のある中央エリアを含む全面開園が2012年だそうですから、初回訪問時に梅林はなかったかもしれません。


 それにしても、東西3㎞、南北7㎞に及ぶ馬見古墳群を宅地開発から守る目的で作られた馬見丘陵公園の花を楽しむ為には、何度も足を運ぶ必要がありそうです。

 

 

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霜白き梅林 紅梅に染まる渓

2020-06-24 04:01:34 | 西日本に梅を訪ねて

 

 いつもの旅のように、せわしく人が行き交い、灯がともる街を抜けて、環八から東名高速に入り、西を目指しました。


 幾度も走り抜けた、見慣れた景色の中、時速100キロほどで淡々と車を走らせました。


 ゆっくりと走る長距離トラックを追い抜くと、背後にセダンが迫り来ます。

 

 追い越し車線に出て、走行車線に戻る作業を繰り返しながら神奈川を抜け、静岡、愛知と順調に車を進めました。


 今夜も午前0時を過ぎた頃に、東名阪の適当なパーキングエリアでの車中泊を考えていましたが、順調に走り進み、名張市の中央公園の駐車場にスペースを見つけることができました。

 

 広い駐車場に停めた車の、後部座席を倒したスペースの寝袋に潜り込むと、途中のコンビニで買い求めた缶酎ハイを飲み干し、朝まで記憶がない程の深い眠りに付いたのです。


 2月24日の朝、周囲に車の音と人声に目を覚ましました。

 

 白く曇った窓ガラスを掌で擦り、外の様子を伺うと、野球の試合でもあるのか、手にバットやグローブを携えたユニホーム姿の人達が駐車場の出口に向かって歩いて行きます。


 東の空に輝く朝霧が、今日の晴天を約束してくれていました。


 車中で、コッペパンとコーヒー牛乳の朝食を済ませ、フロントガラスの曇りが消えるのを待って、最初の目的地である、赤目長坂梅林を目指しました。


 此処から目的地までは10㎞程の距離であることがナビに示されていました。

 

 名張市街を西へ抜け、田園風景の中を南下し、谷の中へ進んで行くと、川を挟んだ道路の対岸に、白い霜に包まれた梅林が見えてきました。

 


 路肩に車を停め、カメラのシャッターを押しましたが、赤目長坂梅林の名を示すものが見当たらないので、確認の為、更に谷の奥へと車を進めました。

 
 数分も走ると車道は行き止まりとなって、スギ林の中に遊歩道が伸びています。

 

 

 再度、元来た道を戻り、先ほどの場所が赤目長坂梅林に違いないことを確認しました。


 それにしても、花を訪ねる旅は、開花時期が夫々の地域ごとの標高や地形の影響を受けますので、タイミングを一律に予測できない難しさがあります。


 この梅林で梅の花が咲き揃うのは、まだ当分先のことのようです。


 もっとも梅の場合、このような季節に、1輪2輪と咲く花を探し歩けば、趣深い時を過ごせますので、私はこの景色を「残念だった」とは嘆きませんでした。


 明日への希望を予感させる、まだ咲きそめし青い可能性に満ちた若人に出会えたような気分に浸ることができたのです。
 

 

 

 赤目の谷を出て、笠間峠を越え、更に北へ進み、月ヶ瀬梅渓へと車を走らせました。


 月ヶ瀬梅渓を流れる名張川は、奈良県と三重県の県境に位置する高見山地の三峰山に源を発し、奈良県御杖村からすぐに三重県名張市に入り、その後奈良県と三重県の県境に沿って北上し、奈良県北東部で奈良市月ヶ瀬(旧月ケ瀬村)に流れ入ります。


 東名阪国道を横切って、名張川に沿う道を進むと次第に川幅が広がり、車窓に紅色の梅の花が点々と映り始めました。


 月ケ瀬橋のたもとまで来ると、対岸に紅梅が咲く様子が見えたので、橋を渡り、名張川右岸の山の斜面に設けられた散策路へ歩を進めました。

 


 地図上に「月ケ瀬梅林」の記載がある辺りを歩きましたが、月ケ瀬梅渓は梅が植栽された特定の梅林を指すのではなく、数多くの梅が花を咲かせるこの地域全体の総称のようです。

 

 
 道路脇の名張川へ落ち込む斜面で枝を捩らせる老梅が、青い水面を背にして、その枝々に咲かせた霞のような白梅を、渓谷に差し込む陽の光に浮かび上がらせていました。

 

 
 月ケ瀬橋のたもとに掲げられていた観光案内図に記された梅渓展望台に上ってみました。

 

 
 丘の上の展望台の梅は、まだ咲き揃ってはいませんでした。


 しかし展望台から見下ろすと、月ケ瀬渓谷がほんのりと紅梅に染まる長閑な景色は、花咲き揃う春がすぐそこまで来ていることを想わせ、ほのぼのとした心安らかな時を楽しむことができました。

 

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旅への想い

2020-06-23 12:43:07 | 西日本に梅を訪ねて

 

 「花の旅」のブログを始めて既に4000日を超えたようです。 

 

 つい最近、ブログの管理画面で「開設から4067日」の記載に気付きました。


 「へーそうなの、もうそんなに経つのかと思いましたが、実は「花の旅」の母体である「芦川のホームページ」のスタートは1999年7月11日ですから、私のネット発信歴は既に20年(7300日)を超えています。

 

 「無事是名馬」を念じ、オリジナリティーと「続けること」を意識しながら写真を撮り、文章を綴ってきました。


 ノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんの「何事も10年続ければ必ず結果が出る」の言葉(もしかすると糸川英夫さんだったかな~?)を頭の片隅に、トーマス・エジソンの「天才とは、1%のひらめきと99%の努力」を反芻しながら、無理をせずにネット発信を続けてきました。

 

 文章を書くたびに、自分の至らなさと無知が明らかになります

 

 幾度も図書館に足を運びました。

 

 そして知識が広がると、好奇心が膨らみ、旅心が加速します。

 

 好奇心が増し、旅心に満ちる循環の中で、充実感を感じながら、幸せな余生を過ごしてきました。


 しかし昨秋、北海道を旅した「青春18きっぷ」花の旅」の帰路に喘息が悪化し、この楽しい日々も、永遠に続くはずもないことを実感しました。


 私も来年は古稀を迎えますので、そんな自分に「何とも迂闊な!」と呆れるばかりです。

 うかうかと暮らしていた直横に、地獄の蓋が口を開けていることを完全に忘れていました。


 目の黒い内に、できるだけのことをしておきたい。


 胸の奥にそんな思いが、赤い炎となって燃え盛りました。

 

 そんな日々の中、2020年の1・2月はとても暖かでした。

 

 小石川植物園でウメを観察していると、ウメの開花が例年よりも早く進む気配に気付きました。

 そして私は、西日本に梅を訪ねる旅の準備を始めたのです。


 2004年頃から始めた、「日本の花暦」の一部を成す「梅の名所」の全制覇が視野に入りますが、四国と中国地方に多くの未訪問先が残されています。


 そして、四国で6日、中国地方で6日ほどを費やせば、全国制覇に手が届きそうです。

 

 小石川植物園で梅の開花を横目に、出発のタイミングを測りまし。

 しかし19日になって突然、近所に暮らす孫が熱を出したのです。

 

 お嫁さんが仕事を休んで病院に駆け込むのを尻目に、のほほんと旅に出れば、帰宅後に居場所がなくなるのは必然です。

 

 この時点で、四国ルートを削除することにしました。

 

 そして、新たなスケジュールを考えていると、机上に置かれた長崎五島市の椿サミットのパンフレットが目に留まりました。

 

 会期は2月29日からと記されています。

 

 それを見た瞬間、下関から足を伸ばし、3~4日で五島の椿を巡るアイデアを思い付きました。

 

 私の「全国に花を訪ねる旅」のテーマは、梅だけではありません。

 

 ツバキサザンカヒマワリヒガンバナなど多種に亘り、全国の植物園や花公園温室などの未訪問先は既に数か所を残すのみです。


 広島、山口で梅を見ながら南下し、下関から長崎へ走り、フェリーで五島に渡って、レンタカーで五島の椿と世界遺産を見て歩けば、日程に無駄がありません。

 

 梅の花の最盛期は10日前後なので、四国の梅を中途半端に訪ねるより、容易には行けない五島列島の椿を訪ねれば、人生の持ち時間を有効に使える筈です。

 

 どうせ下関まで行くなら、五島列島はもう目鼻の先と思いました。


 五島への旅を思い付くとすぐに、五島へ渡るフェリーや宿の手配、レンタカーなどを予約し、2月23日の夜に東京インターから東名高速を西へ走るプランを組み立てました。

 

 旅路の途中の奈良周辺で、未訪問先の梅林を拾いつつ南へ下る予定です。

 

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五島列島の世界遺産と椿 index

2020-06-04 12:38:54 | 五島列島の世界遺産と椿

 

五島列島の世界遺産と椿 index

 

 1 五島列島へ (長崎港→福江島→久賀島)

 

 2 五輪教会への道 (久賀島でレンタカー)

 

 3 旧五輪教会 (久賀島の旧五輪教会)

 

 4 牢屋の窄殉教地 (悲惨な歴史)

 

 5 亀河原の椿原生林 (厳しい自然条件下に育つツバキ)

 

 6 福江島 鬼岳(おにだけ) (福江島を象徴する山)

 

 7 五島椿森林公園 (見事な椿公園)

 

 8 福江の大ツバキと細御寮大ツバキ (椿の古木を訪ねる)

 

 9 玉之浦の教会と神社 (玉之浦湾の教会とアコウ樹)

 

10 玉之浦椿が生まれた山 (福江島の豊かな自然)

 

11 福江島 三井楽半島へ (島の西海岸を北上する)

 

12 数々の歴史ドラマの舞台となった場所 (遣唐使船の最終寄港地)

 

13 世界最大級のツバキ防風林発見 (最大級であるとの認識)

 

14 五島は新しい文明との接点だった (多彩なドラマの地)  

 

15 五島の山 権現岳360m 他 (山に隔てられた集落の教会)

 

16 半泊教会と堂崎教会 (信者が隠れ住んだ地)

 

17 樫ノ浦のアコウ (アコウを眺め、宿へ戻る)

 

18 奈良尾のアコウ (福江島から中通り島へ、見事なアコウ)

 

19 中通島 穏やかな海の景色と教会 (入り江の奥に佇む教会)

 

20 奈摩湾を見下ろす丘の教会 (穏やかな志摩湾を見下ろす教会)

 

21 中通島の自然と人々の暮らし (平地の少ない島の暮らし)

 

22 ヤブツバキの段々畑 (津和崎灯台椿園、椿畑)

 

23 潜伏キリシタンの暮らしを垣間見る (米山教会赤波江教会

 

24 旅の最後は屋台のコップ酒 (博多の屋台で寝酒)

 

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