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バカボンのパパ




バカボンのパパ/名詞/庭師の雅語。

母の実家にはすばらしき日本庭園があり、庭師のおっさんが紺色のはっぴに地下足袋、という姿で仕事に来ていた。

彼が松の木を剪定...まさにバカボンパパである(腕は一級品なのだ)。


今、わが家に隔週で来てもらっている庭師さんは、50代後半というところだろうか、いつもきっちり銀髪をなでつけ、シャツに比較的フォーマルなパンツ、そして革靴といういでたち。
長身ではないが細身で、庭師というよりどちらかと言うとバトラーとして雇いたいような風貌の人物である。

彼はぜんぜんバカボンパパではないなあと思いつつ(何をこだわっているのか)、彼の仕事ぶりを見ているうちに日がとっぷり暮れて行く-今日は20時ころだった-ブルージュの秋。

庭の栗、今年は栗ご飯にして食べられるだろうか。

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ちいさな J 君




去年、予定日より2カ月以上早く産まれてきて
みんなをはらはらさせた小さな J である。
その彼ももう9カ月。

顔の三分の一がお目々で、ニコニコで、特に食事のシーンはほんと~にかわいい。

男前になりそう。




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ブルージュ・メンタリティ




わが家にピアノが来た、ということが街の老舗の楽器屋主人に知れた。

それだけでもかなり驚きである。

そして今日
「どうしてうちで買ってくれないの? うちにだって同じものがありますよ!」と不快をあらわにして言われて...困惑。その困惑、すぐに怒りに変わる(笑)。

いくらブルージュの住民とその街の老舗だからといって、義理もなければ契約をしたわけでもないのに、なぜそこで買い物をせねばならない?

なぜ、彼は「ブルージュの人間はウチで買って当然」と羞恥心もなく言える?

それよりなぜうちにピアノが来たことをあんたが知ってんねん?!

こんな島国根性を「ブルージュ・メンタリティ」と呼んでいる。

こういうことがよくあるのである。

しかし夫は動じないのである。
彼はほんとうに気分にむらがなく、そういうところ高貴でよいと思う。
見習わなくては。
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ピアノ




ピアノが運ばれてきた。

オーストリア製の小さなものである。

わが家のリビングは2階にあり、搬入する階段の幅は問題はないが、たぶんターン(踊り場)で往生するだろう、ということだった。

ならば庭から2階の窓へ入れれば問題ないじゃないか、とタカをくくっていた。

しかし...門からクレーンが入らない。裏は運河である。
まさか船でピアノを運んでくるわけにもいかないだろう。子どもの絵本のさし絵みたいで実現したら大層ステキではあるが。

結局男性5人で階段から運びあげられた。

リビングに入れると天井が高いためかいっそう小さく見える。


今、爪のジェルを諦めてピアノに専念するかかどうか悩み中。
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lost in translation




遅ればせながら見た。ソフィア・コッポラ監督作品。

近頃、外国でポジティヴに生活なさっている方のお話を伺ったり、元気なHPやエッセイを拝見することが多かったので、みなさんこの映画の主人公のような気持ちになることはないのだろうか、と思いながら見た。


子どもの頃からどこへ行っても一種の疎外感を味わうわたしにとっては「主人公に感情移入してしまう」久々の映画だった。
この疎外感は集団に対するというよりも自分自身に対する疎外感である。自分自身のことが一番分からない。

オハナシ的には簡単に言えば、おぼこなインテリ娘と窓際中年男の「カルチャーショック+自分探し譚(by齋藤美奈子風)」なのであるが。

筋的にイギリス映画「インドへの道」現代版と言ったところか。



ところでこの映画を見た外国人は、やたらと東京文化の独特さについて取り立てるのであるが、わたしはこの映画のフォーカスは東京の珍奇な風俗にあるのではないと思う。

自分が自分の人生でLOSTした時、つまり、今までの自分のやり方や常識や価値観が通用しない場所において、別の適切なやり方を選択し、自分が「何を探しているのか」分からないものを探し当てる、ということにあるのだと思う。


こういう映画に賞候補が殺到するとは、アメリカの観客も成長したものである。
自信たっぷりのアメリカも自分を失っていることに気づいたのかも...


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