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santa fair








今年も、ダウニング街10番の首相官邸などにツリーを納めているという
サリー州にあるツリー業者のサンタ・フェアに行き、ツリーを調達した。
ブランド好き、ミーハー万歳。


夜中に見えるかもしれないが、この時、16時半。
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クリスマスツリー1本目








今年は娘の希望で、作り物の2メートル半のツリーと、
本物のツリーと2本飾ることにした。

片付けはわたしは手伝いませんぜ、という条件つきで。
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青い鳥を求めて




拙ブログを続けてご覧になってくださっている方はもうとっくにご承知だろうが、わたしは旅が大好きだ。

今すぐ家を引き払って、一生ホテル暮らしでいいや、と思うほどだ。

ものへの執着も薄まりそうだし、わたしにとっては常に選択肢に入っている生き方なのである。


幸せの青い鳥は家の中にいる。

一昨夜のロイヤル・バレエ「二羽の鳩」の主題もそうだった。

それは確実にその通りなのだが、わたしは、

「他の文化や気候、時間の流れの中に住んでいる人たちが何を『青い鳥』と思うのか(何を美しいと思うのか)」

ということにものすごーく興味があるのだ。

その経験がわたしの知性の低さゆえに浅はかに終わるとしても、知性が充実するまでどこにも出かけないとしたら、家から一歩も出ずに寿命を迎えてしまうじゃないか。


また、わたしはどこを旅しても「すんごいええとこやったわあ! 綺麗かった! 食べ物最高! めっちゃ親切にしてもらった!」といい気分になって帰って来るおめでたいタイプである。

人の記憶は6割がいい思い出で構成されるそうだが、わたしは旅の思い出は10割がいい思い出でできていると言っても過言ではない。
ブログの旅行の記事にもよかったよかったよかったと浮かれて書いているのは、本当に心からそう思っているのである。


ところで、「その国の実情は、消費する側でなく労働する側に回らなければわからない」と言う。アーメン。全くその通りだ。
高級ホテルと観光スポットをいくら時間をかけて回っても、その国に生きて死ぬ人々の「本当の生活」は見えない。

しかし、スウェーデンに行っても、ドバイに行っても、インドネシアに行っても、アメリカに行っても、ブラジルに行っても、日本に帰っても、「最高! 文化最高! みんなすごいやさしいし! また絶対に行きたい!」とにこにこして自宅へ戻って来る方が、「タクシーでぼられた」「道が汚い」「ガイドにだまされた」「食べ物が口に合わなかった」「結局、そんないいところでもないね」などど思うよりずっと得だと思うのである。


今年は近場によく行った。
ギリシャ、南仏、ノルウェイ、ドイツ、イタリア、ポルトガル、モンテネグロ、スぺイン・カタルーニャ地方、キプロス、マヨルカ島、パリには数度、そしてもちろんベルギー、ブルージュにも帰省した。


来年もいろいろなところに行きたい。
娘のGCSE(英国で16歳で受験する義務教育終了資格試験)を夏に控えているので、例年ほどは遊び歩けないかとは覚悟しているのだが。

決定しているのは、スリランカ。
わたしが妹のように慕っている(<妹の方がしっかりしているというのは、実の妹と同じなのである)H嬢と、R嬢を訪ねてイタリアへ行くこと。


好奇心を持ち続け、小さなことにも驚き、自分の物差しでは測れないような種類の「幸せの鳥」を見せてもらうべく、加齢しても常にオープンマインドでいたい。


願わくば、歴史の彼方に消えてしまいそうな古代オリエントのエリアが平和になって、バビロニアやアッシリアの遺跡が、わたしの足腰が屈強な間に見られるように。

それを望んでいない人は旅好きの中にはいないに違いない。
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monotones I and II




ロイヤル・バレエ、フレデリック・アシュトンの'Monotone I and II''The Two Pigeons'の2本立て。
昨夜の「二羽の鳩」の方は娘のお目当て、ローレン・カスバートソン(Lauren Cuthbertson)で。


「二羽の鳩に」については記したので、今回は「モノトーン」の方を。


サティの「グノシエンヌ」や「ジムノペティ」の調べに乗って、全身タイツのダンサーが古代ギリシャ壺絵のような動きをする。

わたしにとっては、ダンサーたちが2次元の平面上を伸縮しながら移動する図形のように見えた。
それが音楽のイメージにぴったりで、ずっと見ていて決して飽きない。

しかもエドワード・ワトソン(Edward Watson)の優雅さが、いわゆる「数式の美しさ」に共通してるのではないか、とすら思った。

あ、数式の美しさというものをわたしは体験したことはない(笑)。今後も体験はできないだろう。単に言葉のイメージだ。義理の父(<大学の数学科出身)がよく口にするので、機会があったら「モノトーン」を見せて意見を聞いてみよう。


娘はすべてが「いかにも古臭い」と言う。いや、それが狙いなんじゃないのか、19世紀後半、パリが最も知的威信を誇った時代の輝かしい遺産。それは20世紀初頭のフランス哲学の波に引き継がれ、そして終わった。

若い人は、というか、われわれひとりひとり、決して同じものを見てはいないのだなあと思った。



(写真はroh.org.uk / Tristram Kentonより)
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「白鳥の湖」花嫁選びの舞踏会




近頃、バレエのストーリーの謎解き遊びを見に来てくださる方が多いので、以前書き始めて放置していた記事を完成させてアップしよう。


バレエ「白鳥の湖」の3幕は、成人した王子が花嫁を選ぶ舞踏会の場面で始まる。

ここでストーリーの辻褄が合わないと感じる観客は少なくないだろう。

なんせ前夜、運命の女オデットに出会ったばかり、永遠の愛を誓ったばかりの王子が、「オデットに似ている」オディールに簡単に骨抜きにされる。
しかもオディールがオデットだと勘違いしたのかしなかったのか、オディールに永遠の愛を誓ってしまうのだから。


この件に関してはこういう考察「続・謎解き「白鳥の湖」 王子はなぜ心変わりするのか」をしたことがある。
王子はおそらくこの場面で成人の通過儀礼を受けているのだ。彼が前夜オデットに誓った「永遠の愛は本物か」という通過儀礼の試験。ちなみに失敗した、というのがわたしの意見。


ロットバルトが異形であり、オデットが黒鳥の姿(オディール)であるのにもかかわらず、王子その他が簡単に騙されてしまう...
その合理的な説明としては、

無礼講の仮面舞踏会である(<ロイヤル・バレエ)
王子だけが他の人には見えない幻覚を見ている」(<ボリショイ・バレエ)
人心、特に女の心を思いのままに操ることができる人物ロットバルトに一挙に場を支配されてしまう(<アメリカン・バレエシアター)

などいろいろあり、この場面だけでも解釈の多様さや、オチのつけ方に文化背景を楽しむことができる。


ストーリー的に不動なのは、王子のために複数の花嫁候補たる姫が集い、その中から一番美しい結婚相手を選べと強いられる筋だ。
このビューティー・コンテストのような場面については、時代的な倫理観の違いがあるにしてもフェミニスト的には悪趣味。プロット的には必要不可欠だし、華やかだし、仕方がないかなあと思っていた。

ところが。

中野京子さんの「残酷な王と悲しみの王妃」(もしかしたら「怖い絵」だったかも)を読書中、イワン雷帝(16世紀ロシア・ツァーリ国の初代ツァーリ)の章で初めて知った。
実際イワン雷帝は自分の妃も息子の妃もそうやって選んだ。ビューティーコンテストを主催して!

そういえばシンデレラの王子様も舞踏会を開いて国中の妙齢の女性を招いたりしますな。

ああいうのはお伽話の中だけのハナシだと思っていた。だって、王子様は権謀術数でお妃を選ぶものじゃないのか。

かえって選べなくなるのではないか...というのは男心や支配者の心理が分かっていないのかしら。

また、「とにかく女性は見た目が麗しいものが最高!」というのは、やはり「美しさ」というのは(「美しさ」の基準は時代や文化によって変化するが)人間に「生き延びそう」と予感させる何か力があるのだろうか。


世の中には「お話の中だけでしょう」みたいなことがほんとうに起こった(起こっている)のだなあ。
自分の知らないことがありすぎて、老後も決して退屈することはないだろう。

とにかく多様な解釈を許す物語や絵画、音楽を愛しながら馬齢を重ねたいと思う。




(写真はSvetlana Zakharovaの写真集から)
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