青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

懐色リバイバル

2012年10月28日 20時53分06秒 | 富士急行

 

(富士山麓鉄道モ1型@河口湖駅前)

 

わしか?
わしは、モ1って言うもんじゃよ。
1929年生まれじゃから、もう80過ぎのジジイじゃよ。
遊園地なんかで有名になっとる富士急行が、ここまで開通した時の創業メンバーじゃて。
今は、こうしてきれいにしてもろうて、駅前から後輩どもの仕事ぶりを見ている毎日じゃ。
最初の頃は、わしらみたいな生え抜きの連中が、それこそ富士山に向かう長い坂を毎日登っては降りておったんじゃが…
最近は、後輩もよそから来たモンばっかでのう。
ちと寂しいが、まあみんなようけ働いちょるよ。
おおそうだ若けぇしの、今日は後輩のお色直しが終わったらしく、お披露目式があるそうじゃ。
こんなさぶい朝っぱらから騒がしいのはそのせいなんじゃろうが、みんなようけ知っておるのう!
なんのなんの、ジジイは早起きじゃから気にする事はないぞ。
遠慮せずに、かえーしい(かわいい)後輩の門出を祝ってやってけれ!

 


と言う訳で朝5時に起きて河口湖くんだりまで行って参りましたよ「富士急行1000系『京王電鉄5000系カラー』出発式&撮影会」。まあ鉄道の事に興味ない人にとっちゃ何のことやら?って感じなんでしょうが、ようは最近流行りのリバイバルモノ。鉄道会社にとって高収益性を誇る昭和生まれのおっさんヲタをアリ地獄に落とし込む驚異のオッサンホイホイなのであります!(ここんとこちょっと怒り新党のナイツ塙風に)。


月江寺の駅近くの市営駐車場に車を置いて、7時半の電車で河口湖の駅へ移動。朝8時前には現着してたんだけどボヤっとしてたら来るわ来るわ。最終的にはどんだけ集まったんだろうねえ。500人くらい来てたんじゃないの?と。関東の大手私鉄だったら比べ物になんないくらいの人が来るんだろうけどさ、富士急行ですし朝8時に河口湖ですしそんなに…とタカをくくってた私が悪うございました。すいません(笑)。

富士急行に移籍した京王5000系は、それぞれの用途とさまざまな塗装に塗り分けられて活躍をしとりますけれど、今回新たに「京王リバイバル色」として1001+1002の2連が塗装され総勢5色のバリエーションに。その5色を河口湖の電留線に一気にどどんと並べてしまいましょう!と言うスペシャルなイベントなのですが、周りの話を聞くと真打ちの京王色は河口湖まで回送されて来るらしいので駅のハイランド側で待ち構えるヲタ多数。

 

AM8:10、真打ちキター!

小学校2年生、みんなで行った多摩動物園!
小学校5年生、みんなで登った高尾山!
中学校3年生、こっそり行った府中競馬!(←)


小田急線ほどではないけれど、自分の生活にサブメインとして存在した京王線。特に相模原線使いだった私には、快速東大島行=都営車か京王6000系、各停調布行き=5000系と言う印象がとっても強い。末期は春秋の競馬急行や、それこそ競馬場線動物園線高尾線の末端運用でお世話になった5000系。車内の「K.T.R」の京王帝都マークが入ったスピーカーと、天井にはゴウゴウと回る丸い送風口とか何もかもが懐かしく思い出されます。


構内での入れ替えも済み、どどんと並べて撮影会。
左から富士登山電車、京王リバイバルカラー、旧富士急行カラー、サイドに富士山をあしらった青カラー、そして紅白のマッターホルンカラー。同一車種をいっぺんに買い取ったからこそ出来るこのバリエーション、商売の方式としては秩父鉄道の1000系国電リバイバルシリーズと同じだよな(笑)。場内は雨で足元も悪く、そんな中をカメラ持ったヲタが右往左往するので落ち着かないことこの上ないのだが、まあイベントってのはこう言うもんなんでしょう。それでもカオスの中に一定の秩序はあって、最前列まで行ったらだいたいの人はパパっと撮ってすぐ下がってくれたので罵声や怒号はありませんでしたけど…
あと、予定では8:30~9:00の段取りだったんだけど車輛の運用の都合で8:25~8:45くらいで終わりになっちゃったんで、後から来た人はかわいそうだったですかねえ。

 


近影で今一度。
京王線自体が軌間1372mmと言う馬車軌道のそれなんで、狭軌1076mmの富士急行だと少々台車周りに尻すぼみ感があるのは否めません。ハキモノも東急のTRの台車じゃなくて営団のFS316に変わっちゃってるしね。あと、大きな排障機(スカート)が多少目に付いたりはしますけど、これは遮断機のない踏切とカーブが連続する富士急ではしょうがないもの。全てひっくるめて初代は来年で落成から50年を迎える京王5000系でこんだけのヲタ客が呼べるのだから、やっぱりこの車両は高度経済成長の時代を生き抜いた関東私鉄屈指の名車と言う評価は疑いのないところなんでしょうね。

  


もう一度そのご尊顔を。
運転台の上に注目すると、「5863」と言うナンバーはこの車両の京王時代の車番。数字は京王フォントと言うべき独特の角ばったレタリングがバッチリとか涙モノの仕上げですな。運転台下のサボ差しも今回の京王色リバイバルに伴って作り直したり、あまつさえパンタグラフまで当時のものと同じものに戻してしまったそうで…しかしよく在庫が残ってたな!若葉台の倉庫の中から出て来たのだろうか。京王5000の屋根上クーラーは分散型と集中型がありますが、このモデルは集中型がドカンと乗ったタイプですね。


追っ掛けで入線して来た高尾からの直通山スカ115とのコラボで。
場内アナウンスでは「京王5000系の永遠のライバルが現役当時では絶対に叶わなかった奇跡の並び」とか言われてたけどそれは煽り過ぎのようなw京王5000のライバルってったら国鉄101か103か201だと思うのでね。そう言う意味では河口湖まで201が来てる時代にこの企画をやれば良かったのかもしれないけどそれは後の祭りでございます。塗り直された京王5000に比べトタの115の外装のヤレっぷりが結構激しくてかわいそうだったかな…。


いずれにしてもスタッフにワールド工芸とかKATOの人がいたんじゃないかと思わずにはいられない基本に忠実なリバイバル。きれいに塗られた下回りとその仕上げは、露出ガタ落ちのこんな日には大助かりのツヤッツヤ。見るものを唸らせる出来栄えだと思いますですよ(笑)。出来栄えがいいとこんなことして遊んでみたくもなるのも人情と言うものです。

次回以降に続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い電車で、黒船の街へ

2012年10月27日 22時26分55秒 | 京浜急行

 

(ダルマまつり@文庫検車区)


先週横須賀の猿島に行った際、そんなには見せてやれなかったフラストレーションが溜まっていたのか、今日は朝から子供に50回くらい「けいきゅう~!」とねだられたので腰を上げる午前10時。地元路線ではないのになぜそんなに京急の事が気に入ってしまったのかは知る由もないのだが、ベイエリアのパッション迸る情熱の赤い韋駄天こと京浜急行電鉄は子供の心を捉えて離さない何かがあるのかもしれない(笑)。とりまお腹一杯京急の電車が転がってる文庫の検車区で京急成分を補給と相成りました。ダルマ@京急800がいぱーい。


文庫の検車区がある辺りは横浜市は金沢区、街の名前を泥亀(でいき)と言う。なんともユーモラスでドジでのろまなカメがのたくっているような名前なんだが、この辺りを干拓した人物の屋号であったらしい。干拓地ですからすこぶる海抜が低く、線路も川面のすれすれを渡って行く。検車区を渡る歩道橋の上から再びダルマ電車普通浦賀行き。


一通り車庫を見学した後、文庫から子供と京急に乗りあてのない旅へ。快特の最前列カブリツキとかやりたかったんだけど、休日の特急は意外に三浦方面へ向かう観光客で混雑しておりますので八景で待避していたダルマ電車浦賀行きにて今週も三浦半島へ進撃開始。追浜の先、10号トンネルの土砂崩れ現場をそろそろと徐行しつつダルマ同士の離合。京急もこっちの方に来ると意外にダルマさんばかりですな。つかもうちょっとフロントガラスを磨いておいてね京急さん!


堀ノ内で久里浜行きの快特と接続を取ってワンブレイク。堀ノ内の駅ってのはホームからちらっと海が見えたりしていいものです。久里浜~三崎口方面に行こうかどうしようかヨメと迷っているうちに快特が行ってしまったので、行きがかり上浦賀行きにそのまま乗り込み結局終点まで来てしまった(笑)。

 


京急線の電車の行き先としては「浦賀」なんてしょっちゅう見てるけど、じゃあ実際に行った事があるかって聞かれたら京急ユーザーでもここまで来る人はそんなにいないかもしれないね。実際自分も電車で来たのは初めてだよ浦賀。港を見下ろす高台の上に頭端式のホーム一線。本線の終着駅なんですが現在は久里浜線に本線の座を明け渡し、優等列車も朝の通勤時間だけとなってますけど…とりあえずホットパンツが眩しい(笑)。

  


青空の浦賀駅前。そーいや浦賀ってのは幕末に歴史の一ページの舞台となった街ですね。黒船に乗ったペリーが浦賀に来航したのが嘉永6年(西暦1853年)6月3日のこと。浦賀の奉行所に「開国せえや!」とカチ込んで来た日から160年、やっぱり日本は外圧によって海から切り崩されていく島国なんだなと言う事を実感する平成の世です。駅前の中華屋で腹ごしらえをして浦賀の街ブラブラ。歩道の柱も港街らしく。

 


駅前から続く浦賀ドックの大きな塀。ペルリのカチ込みにキ○タマ縮みあがった江戸幕府、「やっぱこれからの時代は軍艦作って国防を強化せんといけんよね」って事で浦賀に作られたのが浦賀造船所。明治になり、浦賀造船所が横須賀に移った後は民営の浦賀船渠が大日本帝国海軍の駆逐艦製造の名門ドックとして一世を風靡致しました。敗戦後は浦賀重工業→住友重機械工業浦賀造船所と経営母体は様々変われど一貫して軍事的色彩の強いドックとして浦賀の中心をなす存在でありましたが、平成15年に閉鎖。住友重機械が追浜の夏島町に大きな造船所作っちゃったからね。そこと統合されちゃったみたいです。浦賀から久里浜にかけての中小企業って結構住友関連の仕事で暮らして来た人が多いようなんですが、やっぱドックが消えてからは色々大変なようですね。

  


秋晴れの浦賀港。浦賀の港ってーのは陸地にグッと切れ込んだ形をしておりますんで、その港のせいで街は東西に分断された形になってるんですね。また港の最奥部にはでっかいドックもあるもんだから、同じ浦賀の街でも例えば東浦賀町から西浦賀町に行くには海岸線を北に上がって浦賀の駅前に出て、ドックを大回りしてから今度は南下して…とえらい時間がかかる訳です。そんな地元住民の不便を解消するのが浦賀の港内にある渡し船「浦賀の渡し」。この渡し船、正式には「市道2073号」と言う扱いになっている横須賀市の公共事業でして、東西に分かれた街を繋ぐと言う意味では富山新港の渡し船みたいな感じでしょうかね。西浦賀町側の乗り場は「浦賀港交番前」の信号のたもと、渡し場まで浦賀の駅からぽくぽく歩いて15分程度でしょうか。ドックと港を見て歩く適度な散歩道と言った感じです。

  


公共事業ですが、タダではなく渡船料は徴収されます。それも、自転車は分かるけどベビーカー、あまつさえ犬まで課金対象です(笑)。じゃあ猫ならどうなんだ、セキセイインコはどうすんだと思ったりもしなくはないのだが…先週のモヤさまでカメを散歩させてるオヤジがいたが、ぜひ浦賀まで来てこの渡し船に乗って貰い、どういうジャッジを下されたのか聞いてみたいものだ。とりあえず我々の団体構成はヨメ・私・子供→150+150+0(大人と同伴の未就学児)=300円って訳ですか。ベビーカー持って来なくて良かったぜ!w特に渡し船の時刻と言うのは決まっておらずフネは常時対岸の東浦賀側の船着き場に常駐しており、こっちから渡りたいよと言う意思表示は右写真のボタンによって行われる。渡し船のデマンド運行ってのも画期的だな!(←そうか?)。

  


あたかもガストの店員を呼ぶ体で、ヨメがボタンをポチッと押して対岸に目を凝らせば、「あっ!動き出した!」と言うヨメの声とともに渡し船「あたご丸」がクルクルと船首をこちらに向け浦賀港内を渡って来る。ポンポン船一隻とはいえ、船を呼び付けると言うのは何だか無駄な優越感があるな(笑)。一人だと来ないとか、キレーなねーちゃんじゃないと来ないとか、むさいオッサンだと来ないと言う事はないようです(当然)。ただし12時から13時の間は船頭さんの昼休みらしく、この時間はナンボ押しても来ないそうです(笑)。呆れたお役所体質だな!!って役所の事業だもんなコレ。あっという間に船着き場に船首をドテかましたあたご丸、写真を撮ってたら船頭のおっさんに「(さっさと)お乗り下さい~」とかぶっきらぼうに言われちまったぜ。

   


我々家族だけを乗せた貸切のあたご丸が、浦賀港内を渡る。沖を見れば東京湾と、遥かに見晴るかす房総の山々は鋸山か。港の奥部を見れば、住重のドックと三浦丘陵に囲まれた浦賀の街。右見てパチリ、左見てパチリ、そんな刹那の行動がやっと許されるくらいの船旅はあっという間に終了する。地図で見たら直線距離では僅か300m程度のもんだもんなあ。乗船時間は正味2分もなかったかもしんないwまあ非日常感が味わえるって意味では結構楽しかったけど。

  


対岸からはサイクリストのお兄さん1名が西→東浦賀町へ向けて乗船。150円+50円で200円だね。あっという間に船着き場を離れたあたご丸、秋の日に水面(みなも)輝く浦賀の港内を再び渡って行く。そんなのんびりした風景の中で海鳥も羽を休めております。


とりあえず浦賀に来た事の証としては十分なショートトリップを愉しんだのだが、そのまま浦賀の駅に戻っても能がないので駅とは逆方面へのバスに乗車。ちょうど観音崎行きの湘南京急バスが来たのでね。

  


観音崎からの東京湾。浦賀の港内はおだやかだったのに、観音崎は北風が強く東京湾は荒れ模様…
まーしかし東京湾ってのはホントバカみたいにでっかい船が頻繁に行き交うもんなんだね。望遠で抜いてみたこの大型船、どうやらバハマ船籍のタンカーらしくLNGを積んで横浜にやって来た船らしいです。磯子の火力発電所あたりに持って来たのかしら。日本のLNGの輸入量ってハンパなく増えてるんだなあって事を実感しますな。荒れる海を波しぶき立てながら行く釣り船の向こうにはうっすらと東京湾観音が見えて、対岸が富津辺りなんだなあって事が分かる。


ススキ揺れる観音崎の磯に打ち付ける波を見ながら、帰りのバスを待つ事と致しましょう。


車をデポした金沢八景に着いたころにはすっかり夕暮れ…
帰りの電車の中で寝てしまった我が子を背負って横浜市大前の踏切に立つと、快特三崎口行きがバビュンと通過して行きました。
車、電車、船、バス、電車と盛りだくさんの一日、背中の重みを感じながら、ちとハード過ぎたかな?と思う父親であります(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四十八瀬の秋景色

2012年10月22日 23時05分03秒 | 小田急電鉄

 

(久々の訪問@渋沢5号)


日曜日は海老名で「小田急電車フェスタ2012」が開催されてたんだけど、どうせ鬼のように混むだろうしそれにしては展示物がEXEの4連だけと言うホントに客を呼ぶ気があるのか疑問な状況だったので、ガン無視して普通に渋沢5号まで子供と一緒に行ってしまった。木陰に入ると風は秋の爽やかさだったんだけど、日なたは何だか夏のように暑かった。それにしても昨日の渋沢5号、何も撮るもんないじゃんと思いきや同好の氏が5~6人ウロウロしてて、なんか子供なんか連れて来ちゃった自分がめっさ場違いな気分でした(笑)。

  

 

   


渋沢5号、新宿方は遅い刈り取りを待つ田んぼにカカシ。送電線は気になりますがスコーンと抜けた青空に大山バックで秋らしく。そして小田原方はインカーブを抜けて来る列車たちを定番通りに。つかここの小田原方には去年ススキが結構生えてたんで、それを狙いに来たんだがなあ。今年はすっぱり刈られてしまって…足元がすっきり見えるのはいいけれど、季節の風物を狙いに来た身にしてはちょいと残念。ただ、インカーブを立ち上がって来る10連ってのは特急・急行に関わらず絵になりますね。


この辺り、11月になると渋沢丘陵が紅葉に包まれてそれこそ写欲をそそる季節になるのですが、まだまだ紅葉には程遠い季節感。四十八瀬川の水は清く澄んでさらさらと流れる中をLSE原色で締め、家に帰って昼メシ食いながらアタック25見てたら青の回答者の姉ちゃんがやたらかわいかったそんな日曜日でしたw

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島へ

2012年10月20日 23時00分00秒 | 日常

(要塞島のプロムナード@猿島)

秋の麗らかな一日、猿島に行って来ました。
猿島?なんて言われる方もいらっしゃると思いますが、東京湾に浮かぶ島の中では一番大きい島なんですぜ。
場所は横須賀市街の沖合、横須賀の新港から渡船で10分。軍都・ヨコスカらしく帝国海軍の首都防衛のための要塞として厳重に管理され、太平洋戦争時代は高射砲の砲台が置かれた軍事色の強い島なんですな。敗戦後は米軍に接収されたり、国が管理したりと色々と紆余曲折ありまして、今は横須賀市に無償譲渡された上で市民に解放された無人島でもあります。


島の中心部を掘り抜き、岩盤に対して横に通したレンガ積みのトーチカは雰囲気がありますな。
島と言う隔絶された空間、そして東京湾内と言えどもちょっと海洋性の植生があるのかジャングル的な雰囲気。浜辺ではBBQに興じる団体が幅を利かせておりますが、島内に潜れば老人ハイカーに混じってレイヤー連れのカメコと、そしてモデルを連れた個撮のカメラマンが多かったのを私は見逃さなかったw傍から見ると個撮のカメラマンってあのカップルでもない仕事でもない不思議な雰囲気ですぐ分かってしまうのは何故だ(笑)。自分も一瞬混ぜて貰おうかと思ったぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化の秋

2012年10月14日 09時03分46秒 | 東武鉄道

 

(東向島駅駅名板@東武スカイツリーライン 笑)


はい、と言う訳で本来の目的地ってのはここだったんですね。東武スカイツリーライン(笑)の東向島駅、確か昔は玉ノ井と言ってたなあ…なんて思ってたら駅名板にちっちゃく(旧玉ノ井)って書いてありました。昔は東武浅草から業平橋、曳舟玉ノ井鐘ヶ淵、堀切牛田北千住ってそんな風に覚えてましたけどね。玉ノ井って言うのがこの辺りにあったいわゆる「色街」の地名なんで、そこらへんが嫌われちゃったのかもしれん。京急の大師線で港町駅が堀ノ内って名前じゃないようなもんか。つーか京急には普通に堀ノ内って駅がありますけど、川崎じゃなくて横須賀ですw


東武電車は東向島の駅下にある「東武博物館」、ここが今日の本来の目的地。つーかさっきは博物館に入ろうとしたら子供が「電車乗りたい!」ってダダこねたもんだからとりあえず初乗り区間まで往復して来るか…という結果の堀切行でありまして(笑)。まああんなに下町っぽさを楽しめる場所だとは思わなかったんで良かったんだけどね。鉄道の日を翌日に控え、博物館巡りなんて秋らしい文化の薫り高い行動じゃあないですか奥さん!(バンバン←机を叩く音)。ちなみに文化って言葉は自分を正当化するのに有効なので覚えておきましょう@石田純一

 


開館は平成元年と既に歴史は20年以上。もうそんなになってますか!あるのは知ってたんだけど来た事はなかったんだよなあ。東武鉄道創立90周年事業だったそうなのだが、結局こういう文化事業をやるかやらないかってのは会社の考えですからねえ。我が地元のOERもネット上のミュージアムなんかでごまかさないで遊園の跡地にでも作ってみろやって思ってますが…出来たのは藤子不二雄ミュージアムだったと言う(笑)。入場後すぐに目に入るのは東武黎明期のピーコック製の蒸気機関車と東武初の電車であるデハ1号。このSLは昭和40年くらいまで葛生の山の中で石灰石の輸送に使われてたんじゃなかったかなあ。デハ1号もダブルルーフの屋根とブリルの台車がいかにも戦前車って感じですね。

   


床に広がる東武の路線図。路線総延長は460km余りと近畿日本鉄道に続き全国第2位。以前は名古屋鉄道が全国第2位だったんだけど、末端区間のローカル線をバッサバッサ廃止してしまったので3位に転落してしまったのですね。伊勢崎線、日光線、東上線を三本の柱として北関東に広がる東武ネットワーク、小さい頃に山と渓谷社の「私鉄ハンドブック」や、ほいく社のカラーブックス「日本の私鉄」シリーズを祖父祖母が来るたびにねだって買って貰った事を思い出しますな。床に広げた東武の路線図に「東武ってでっけえなあ」と思ったあの頃の本、今読み返したら相当面白いと思うんだけどねえ。基本的な姿は変わってなくて、熊谷から妻沼に行ってた熊谷線がなくなったくらいのもん。壁に飾られたDRC1720系の雄姿、東武と言えばこの車両って感じでしょうか。

 


資料コーナーを出るといきなり現れる5700系のカットモデル!これは驚いたと同時にうっとりしてしまうような東武の輝ける名車ですよね。一貫して特急・急行運用にしか入らなかった生粋の優等車、あずき色とカーキに近いような深いベージュは車で言うとトヨタのセンチュリーみたいな別格の高級感があります。子供の頃、千葉の祖父宅へ向かう時に北千住の地上ホームに停まっていた姿が鮮やかに蘇るわあ。古豪と呼ばれる車両はどの大手私鉄にもあると思うのだけど、こと東武の5700ってのはまさに文字通りの古豪でありトラディショナルだと思うのです。

   


中庭には5700系がデビュー当時の姿に復元されて展示されております。デビュー当時は湘南型の二枚窓で「ねこ髭」と呼ばれる化粧板を前面にあしらったデザインだったようですが、正直この時期の事は知りません。海老名で車庫の中に入れられてるSE車の初代の姿みたいなもんなんだろうか。それでも側面に細かく並ぶ鎧戸付きの二段窓、シーツのかかった座席が整然と並ぶ車内は日光の金谷ホテルのような古式のゆかしさであり伝統の趣ですねえ。台車はコイルバネと軸箱の上に板バネを挟んだ独特の形状で、中央の芯皿部分から両側に継ぎ手が伸びてると言うのがちょっと不思議。


鉄道学術的には非常に貴重な下野電気鉄道時代の雨宮の台車。大正15年製。昭和以前のまだ日本の鉄道製造技術が発展していなかった頃のもの。だいたいこの時期のものってのは海外からの輸入モノであったりするのだが、国産台車ってのが地味ながら貴重なものです。今の台車からは相当異なるもので、そもそも電車の台車でスポーク車輪ってのが珍しいよね。下野電気鉄道から銚子電気鉄道のデハ101に付け替えられ、長らく銚子の地を走り続けておりました。と説明書きを見て思い出したのは、廃車された後に長らく笠上黒生の駅で雨ざらしになってたあのデハ101か!って事で…


フォルダをまさぐったらありましたよデハ101の銚子電鉄時代。見事な雨ざらし状態。なんか中には祭り用のぼんぼりとか資材が入ってたけどw

  


お次は東武の電機・ED5010型5015。全国の私鉄でも有数の電気機関車の保有量を誇る東武の機関車、このカマの最終配置は東上線の坂戸機関区だったらしく「坂」の所属銘板がありますが、私鉄のくせに坂戸と杉戸(現東武動物公園)に機関区があったってのが凄いわな。東武の主力と言えばこの私鉄らしい40トン級電気のED5000シリーズ、これは量産型のED5010番ですが、まあカッコエエですよこれも。でかいスノープロウと警戒色のゼブラマークが東武電機の特徴ですが、こんなんが重連で北関東の空っ風の中をついこの間まで走っていたなんて想像するだけでヨダレもんですねえ。葛生の石灰石鉱山からのセメント輸送を中心に、国鉄の線路が届かない北関東を積極的にカバーしていた東武が貨物をやめたのは2003年のこと。北館林にある両毛丸善㈱の館林油槽所までJRの久喜から継走でガソリンの輸送を行っていたようですが、これをもって日本の大手私鉄の貨物輸送は最後の幕を閉じました。ちなみにこのED5000シリーズの末裔ED5081と5082は、三岐鉄道へ売却され今も現役なんですが、こないだの時は見なかったなあ。

  


この手の博物館ではおなじみのジオラマにシュミレータ。自分はあまり興味がありませんが、子供はやっぱこう言うのが大好きなんですよねえ。まだ彼らには「でんしゃのうんてんしゅになる!」と言うのは夢ではありませんから(笑)。私らみたいなのはそんな甘い夢は叶わぬものと知っているから、昔を反芻してはあーでもないこーでもないと思い出を語るのみであります。


他にも展示物は色々あり、キャブオーバーバスや日光は明智平のゴンドラ、旧日光軌道線の連接車など見所はさまざま。入場料200円でこんだけ楽しめたら安いなあって感じですねえ(笑)。画像はいまや「とうきょうスカイツリー駅」に変貌を遂げてしまった業平橋駅の旧駅名表。曳舟からの半蔵門線直通にスカイツリー開業で変貌を遂げまくる界隈ですが、まーだアタシには「業平橋」のほうが通りがいいですね。でもこんな看板を説明する私の隣でヨメが「折角ここまで来てるんだからスカイツリー行こうよ!」って言うんでこの後行って来ることになったんだけどw

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする