北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

■祭太郎個展「まつりたろうのお盆だよ! 全員集合」 (8月28日まで)

2008年08月28日 14時25分25秒 | 展覧会の紹介-現代美術
 ライジングサン・ロックフェスティバルで毎年、太鼓をたたくパフォーマンスをするほか、2006年の現代アート展「FIX! MIX! MAX!」に出品、大いに会場を盛り上げた祭太郎の個展。
 (「祭太郎」に「さん」とか「氏」をつけると、なんだか不自然なので、このまま敬称略でいきます。長文です)

 これまで各種イベントや、プロレスのリングアナウンサーなど、どちらかというと、「いかにもアートでござい」というおもむきではない活動が多く、ギャラリーでの個展というのは、今回がじつは初めてではないだろうか。


 個展は、大きくわけて、
1.左右の壁のドローイングや半立体タブロー
2.正面の、祭壇のようなインスタレーション
3.映像作品
という構成になっている。

 1.のうち、右側の壁は「近未来パラダイス」という通し題で長年にわたってかきつづけたドローイング。
 左側の壁には、小さな木製の家を、骨などをドローイングした紙の上にいくつもはり付けた作品が数点ならんでいる。
 また、2.は、彼がよくかぶっており、祭太郎のシンボルイメージともいえるウサギを模した、巨大な段ボールのはりぼてである。

 天井からは、ネックレスのように輪をつなげた紙がいくつも垂れ下がり、会場全体は学校祭の教室のような雰囲気になっている。

 1.の左サイドと2.は、とりあえず彼の新しい展開といえそうだ。
 段ボールというと、ただちに日比野克彦が思い出されるけれど、日比野がその素材に着彩したり加工しているのに対し、祭太郎の場合は、ドローイングの額に使ったり、会場のテーブル(ただし、表側には「いす」と書いてある)に使ったり、素材にあまり手をくわえていない。

 そのふたつを別にすれば、見ているうちに
「祭太郎って、年をとってないんじゃないか」
という思いがわいてきた。
 もちろん、年をとらない人なんていない。
 でも、時間がたっている-という感じが、作品の中にぜんぜんないのである。

 とくに、映像作品に、その感覚を強く覚える。

 たとえば、「兄ちゃんとぼく」のなかで、うさぎずきんをかぶった男が雪に半ばうもれたすべり台を何度もすべるようすを、ロングショット、カメラ固定で撮る-という場面があるが、これとおなじものを、2002年のデメーテル(帯広などで展開された国際現代アート展)の関聨行事で上映した映像作品でも見た。
 なお、ここで雪に埋もれたすべり台を往復しているのは、祭太郎その人ではないかと思われるのだが、インサートでくりかえし入る声は
「たけし、楽しい?」
である。

 この映画は、兄弟のプロレスごっこがテーマであり、兄が祭太郎、弟がたけしである。
 「ごっこ」といっても、兄は「真剣勝負だ!」と何度も言って、家の畳の上で勝負を挑むのだが、弟に連敗する。
 
 それにしても、プロレスごっこなんて、筆者の感覚では、小学生かせいぜい中学生ぐらいまでの遊びであって、30過ぎのおとなが正面切って取り上げるもんじゃないだろうと思うのだ。
 しかし、祭太郎は、永遠の少年のように
「お前は何と闘っている」
と、問い続ける。
 そこには、年月の経過は存在しないかのようだ。

 それは、友人とともに母親を訪ねて昔話に興じる作品(正直なところ、ちょっと長すぎるような気がした)にも共通する。
 いま、母親、と書いたけれど、この作品はあまり説明というものをしないし、祭太郎本人はほとんど画面に登場しないので、それぞれの人物の関係などはよくわからない。
 また、「SOTOZURA SOTOZURA2」という作品も、ベースになっている「SOTOZURA」がすでに5年以上前の映像だ。
 「SOTOZURA」のラストシーンで、今回の作品にも流用されている場面は、祭太郎の映像中でも、もっとも可笑(おか)しく、また、彼の本質を表現しているのではないかと思うのだが、帯広での野外カラオケ大会でうさぎのずきんをかぶったまま1曲歌った祭太郎は、司会者に
「ご職業は」
と訊かれ
「受け身をやっています」
と答え、意味がわからずにとまどう司会者の前で、ほんとうに受け身をしてみせるのだ。

 5年以上も前の映像をそのまま改編して現在の作品にしてしまっており、なんら違和感がない-という事態を目の当たりにすると、
「20代の作家は、年を追って成長し進歩していくのだろう」
という漠然とした前提が、筆者のなかで崩れてしまうのを感じる。
 わたしたちのような古い世代にある
「大学を出るぐらいの年になったら、いい大人だろう」
という思いこみのようなものがすでに通用しなくなっているのを、あらためて痛感させられる、と言いかえてもいい。


 この「永遠の現在」とでもいうべき感覚って、なんなのだろう。


 人は否応なく年をとる。その事実に背を向けて永遠の現在を生きることは、或る意味でパラダイスに生きることだろう。 

 しかし、それは、わたしたちの周囲に、せっぱ詰まった現実が欠落していることの裏返しではないのか。
 「お前は何と闘っている」
という問いかけは、闘うべき相手が見えない(「不在」では、ないだろう)現代日本の情況の反映ではないのか。

 この個展を見ている間、テレビでは、アフガニスタンで農業指導に活躍していた日本人男性が誘拐され殺されたニュースが流れていた。

 それにくらべると、日本は、札幌は、平和で良かったね-ということになるのかもしれない。
 わたしは最近、長谷川四郎の「鶴」を読んでいるけれど、いくら闘うべき相手や語るべき物語があるからといって戦争はまっぴらだ。

 雑ぱくな印象で恐縮だが、CAIのスクール出身者は、自分自身のことにこだわりがあり、それ自体は悪いことではないのだが、そのこだわりが他者や社会の方へとあまり広がりを持ちえていないような気がしないでもない。
 ドイツの文豪トーマス・マンは「自己を語ることがすなわち世界を語ることになる者、それが詩人(芸術家)だ」と喝破したという。

 祭太郎も、いつか、世の現実と向き合い、表現の領野を広げる日がくるのだろうか。

(乱文多謝)


08年8月9日(土)-28日(水)13:00-23:00、日曜・14-17日休み
CAI02(中央区大通西5 昭和ビル地下2階)


□ブログ「祭の妖精 祭太郎でございます」 http://ameblo.jp/maturi-taro/

RISING SUN ROCK FESTIVAL(ライジングサン・ロックフェスティバル)2008のようす


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。