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左川ちかと同時代の美術について

2024年01月19日 21時21分21秒 | つれづれ日録
(承前)

「特別展 左川ちか」を企画・開催している道立文学館で1月14日、「左川ちかと同時代の美術について」という講演を聴いてきました。
 正直なところ左川ちかは文学業界の人なので美術との接点がそれほど多かったわけではないようです。

 苫名直子副館長による講演では

1 本人の画作
2 贈られた画集
3 本人のエッセイや詩の中にヒントが?
4 『左川ちか詩集』と三岸節子

という四つの章題に沿って話が展開しました。

 このうち「1」については、左川ちか本人は絵も上手だとかねて言われていましたが、実際に会場にあった絵画ははがきの複製1点のみ。市立小樽美術館の所蔵品のコピーで、派手な色づかいの風景画です。「ウラの南天畑 昭和十二年元旦」と題が付されています。
 
 話の半分以上は「3」でしたが、実は彼女の書いたもののなかに美術の話題が登場するのも、確かなのは1度のみ。
 伊藤整宛ての書簡に、一緒に美術館へ展覧会を見に行き、途中ではぐれてしまったことへのおわびをつづっているそうです。
 これは、展示品にはなく、「左川ちか全集」にも収録されていません。
 文中には明示されていませんが、小林和作、小山敬三、石井鶴三、鳥海青児の名が記されており、これは「第7回春陽会展」に間違いないとのこと。
 スライドで小林和作の「薔薇咲くカプリ島」「エクス風景」、鳥海青児「北海道風景」などを見ることができたのは良かったです。
 ちなみに「北海道風景」は、1928年に三岸好太郎・節子夫妻とともに道内に滞在した際の取材作。
 小林和作は1930、31年に、左川ちかの故郷である後志管内余市町に1カ月ずつ滞在し、それらの体験は32年の第10回春陽会展に出品した「果樹園」の連作などに実を結んでいます。

 あとは、想像力をたくましくして、詩句の中に、当時彼女が見ていたであろう(確証はない)古賀春江や福沢一郎らの絵画との共通点を探っていました。

 この講演で知ったことはほかにもあります。
 会場には特記されていなかったのですが、左川が「会話」を寄稿した雑誌「苑」の口絵・カットや、「椎の木」4月号の表紙は、三岸好太郎が描いているのです。
 いずれも、奇妙な感じの、男の首でした。
 文芸誌のカットといえば、左川ちかがミナ・ロイ「寡婦のジャズ」の訳を載せた「文学リーフレット」第10号には、ラウル・デュフィの挿絵がついています。
 また、チーヴァー「遅い集り」の訳稿が掲載された「新文学研究」第6集には、エルマン・ボオルという画家の、ランプと木の挿絵があしらってあります。

 もっとも、これらの挿絵は雑誌の編集サイドが寄せたものであり、左川ちか本人の好みなどとは関係なさそうです。

 「2」は、マリー・ローランサンの画集とか。
 今でこそ
「愛らしい女性像をやわらかな色彩で描き人気だったが、近年は徐々に忘れ去られつつあるエコール・ド・パリの女性画家」
といった見方が一般的ではないかと思われますが、1930年代当時、初めて紹介された時点では
「女流唯一の前衛画家」
などといわれていました。
 だいぶ受け止め方が異なりますが、そのほうが、戦前のモダニスト左川ちかにふさわしいような気がします。

 ちなみに「4」は、左川ちかの歿後に伊藤整の編集で出された「左川ちか詩集」の表紙を、夫の好太郎を亡くした直後の三岸節子が描いている件です。
 筆者の目には、三岸節子のシマウマは、国松登の戦前の絵に見えました。

 なお、この文章のテーマとは直接関係ありませんが、上述の「左川ちか詩集」について、伊藤整が「北海タイムス」(北海道新聞の前身のひとつ)昭和12年(1937)4月8日学芸面の「ブックレビュウ」欄で書いています。「伊藤整全集」には未収録らしいので、参考までに全文を引いておきます。

 近来北海道が東都の詩壇に送つた殆ど唯一の女流詩人であつた左川ちかが逝つてから一年余になる[。]左川ちかは明治四十四年余市町黒川に生れ、本名を川崎愛といふ。

彼女の兄川崎昇君と親交のあつた僕は、庁立小樽高女の一年生として汽車通学をしてゐた十三四才の頃から見識つてゐた。後兄君のあとから上京して百田宗治氏の椎の木社に入つて詩作することとなつた。


 それは昭和四年の頃のことである。西欧の新精神の詩風が若い日本詩壇を風靡してゐた頃で、左川ちかもまたその一群に伍し、今までの日本の女流詩人とは全く違つた斬新なしかも感覚的に確実な才能を示す詩風でもつて顕はれ、一躍詩壇の注目の的となつた。

文芸レビユー、詩と詩論、椎の木、セルパン等の雑誌に、阪本越郎、春山行夫、北園克衛等とならんで異色ある作品を次々に発表した。余談であるが、松竹少女歌劇の小林千代子とは小樽高女で同期(原文ママ)であると聞く。


 詩壇のことおほむね文壇の片隅にあつて華やかに世に行はれないが、新詩壇における左川ちかの存在は非常に大きな未来を有つてゐたことと、新らしい詩に女性独自の感覚的根拠を与へたことにおいて、彼女の郷里が充分に誇りとしていゝほどのものであるのみならず、その死によつて日本詩壇の失ふ処もまた近い例を見ないほど大きなものであつた。

昭和十年から腸を病み、十一年七月死去した。死後その全作品が『左川ちか詩集』の名で昭森社から発行された。装幀装画等は三岸節子氏の手になつた典雅な本である。また彼女にはイギリス新文学の代表的作家なるジヨイスの訳詩集もあつて、それは昭和七年に椎の木社から発行された。『左川ちか詩集』東京市小石川区大塚坂下町一〇二昭森社発行、定価二円

 

 正字(旧漢字)は戦後の常用漢字に改め、ルビは省きました。


 モダニスムは左川ちかの歿後、急速にすたれていくのですが、その理由が何か、読者の皆さまにはご自分で考えていただきたく思います。


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