【室蘭】札幌地裁室蘭支部で28日、開かれた苫小牧市の幼児殺害事件の初公判。当時3歳と1歳の子供を自宅に置き去りにした被告は、男女関係がもつれてふさぎ込む中、「ママー、なしたの」と心配してすり寄ってくる長男を疎ましく感じ、殺意を抱いたことが検察側の冒頭陳述で明らかにされた。
冒頭陳述によると、被告は前夫と離婚した2005年から、2人の子供と暮らし始めた。就寝中も泣き叫ぶ子供たちを煩わしく思っていたところに、交際していた男性との別れが重なり、子供たちの「存在自体が疎ましく」感じられるようになっていった。
その後、この男性や別の男性との関係がもつれ、鬱屈した気分に陥ったが、長男がすり寄ってきたり、三男が足にすがり付いてしたため、「これ以上面倒は見たくない。子供たちを殺したい」と考え始めた。
被告は06年10月末から2人を自宅に放置。12月上旬、2人とも餓死していると思い、遺体を外に運び出そうと自宅に戻ったところ、やせ細った長男が「ママ、遅いよ」とすがり付いてきたという。
北海道新聞、けさ(07年5月29日)朝刊社会面の、苫小牧幼児遺棄事件の雑観記事です。
涙なくして読めませんでした。
なんと鬼のような母親でしょう。それでも、子供は「ママー」と言ってすり寄ってくるんですね。
でも、子供って、そういうもんです。
すり寄ってくるから、かわいいんですよ。
たしかに、しつこくまとわりついて、うるさいときもあります。
だからといって、殺そうとするなんて…。
1カ月以上も、かぎのかかった寒い家に置き去りにされて、それでも「ママ、遅いよ」と頼ってくるのです。
兄弟が、不憫で不憫で、しかたありません。
三男は死亡しました。
生き残った長男は、どうしようもない実の母とは離れ、あたらしい環境で元気に育ってほしい、としか言えません。
このブログ全体からは、浮いたエントリになるかもしれませんが、あまりにかわいそうだったので、アップしました。
こんなひどい事件が、二度と起きませんように。
神様から配られているとか。
この坊やはもう、一生分の不幸を済ませてしまったのだから、あとは心優しい友人、伴侶に恵まれて人にうらやまれるような幸せを手にしてほしいと、そう願わずにいられません。
「子は親を選べない」と言いますが、幼児にとって、
自分の家、育ててくれる大人が、世界のすべてです。
大人になって書物を読み、いろいろな体験をすれば
‘自分’の姿が客観的に見えてくるでしょうが。
アパ-トの一室しか知らされない、自由も責任も知ることがなかった不運な三男にも祈りを捧げます。
わたしも、その説、何回か耳にしたことがあります。
でも、このエントリのような子どもがいると
「ホントかなあ」
と思います。
ふたつの解釈があると思います。
ひとつは、幸福か不幸かは気の持ちようであって、とても貧しい人でも、幸福な気分は持てるのだ、と。
それは或る面で真実でしょうが、現実の矛盾に目を閉ざす考えでもあると思います。
わたしは、こう考えます。
人間は、本来、神様から、ひとしく幸福の総量を与えられているのに、人間が、傲慢だったり、私腹を肥やしたり、不正を働くから、幸福の量が偏在するのだ、と。
だから、本来のように幸福が行き渡るよう、わたしたちは努めなくてはならないのだ、と。
「ママ、遅いよ」
何度思い出しても、涙しそうになります。