(承前)
俗に
「歌は世につれ、世は歌につれ」
と言う。
しかし、これほど実相から離れた決まり文句もあまりないと思う。
もちろん、時代と鋭くシンクロした音楽もある。
2007年に書いた「micro@ivory あるいは「傘がない」」という記事では、井上陽水の「傘がない」が、どれほど1972年という時代を表現した曲であるかを、書いている。
翌年のヒット曲「夢の中へ」も同様だ。それまで、イデオロギーの正しさを主張しあい、真理を探し求め、疲れた人たちに
「まあ、ちょっと休んで踊りませんか」と呼びかけたのだから、やはり連合赤軍事件直後の人々の思いを、非常によく代弁している歌なのである。
ところが、16年後の1989年に、アイドル歌手の斉藤由貴が「夢の中へ」をカバーしてヒットさせた。
筆者は当時、その斉藤由貴のヒットを受けて、子どもたちの合唱団が「夢の中へ」を歌うのをテレビで見て、くらくらとめまいがする思いがした。
当時は絵文字はなかったけれど、まさに orz の気分であった。
井上陽水の「夢の中へ」は1973年に歌われる必然性がある。
しかし、バブル期に子どもたちが「夢の中へ」を歌う必然性は、全くないと思う。
そのあたりから、音楽における時代、新しい音楽といった概念が、どんどんあやふやになっていったのではないか。
カバーという話題でもうひとつ。
The Beatlesの“Strawberry Fields Forever”(1967年)を、英国のバンドCandy Flipが1990年にカバーし、英国ではヒットした。
このチューンも筆者はちょっとショックだった。
ショックの内容については、当時の「美術手帖」に、たしか佐々木敦さんだったと思うけど、筆者の思いを言い当てたかのような文章を書いているので、機会があったら見てください(いま手元にないから、何月号で、書いた人もはっきりしないんだけど)。
カバーというのは、オリジナル全盛の時代にあって、他人の曲でもなんとか自分らしさをアピールしようと必死でアレンジし演奏するのが通例だった。
しかし、このキャンディ・フリップのバージョンには、そういうシャカリキなところがまるでない。オリジナルを超えてやろうという意欲、新しいアレンジにしてみせようという気合が、最初から欠落しているところが、むしろ新鮮で驚きであった。
1970年ごろに最大に達した「新しさの加速度」が、1990年に至って死滅する。
新しさは、もはやない。1990年以降は、手持ちの有限枚のカードを、順番を変えて提示するだけ。
あるいは、当時の人がそういう事態をさして「ポストモダン」とか「歴史の終わり」などと呼び、おもしろがったのかもしれない。
当時はおもしろい事態だったかもしれないが、それが当たり前になってくると、あまりおもしろくない。
歴史を知らない人は案外おもしろく感じられるのかもしれない。しかし、たとえば、おニャン子クラブを知っている人がAKB48を、既視感抜きで見ることができるはずがないように、新しさのない世界がおもしろいはずがない。
筆者は、退屈はしていない。
「古典」と呼ばれる作品ですら、一生かかっても読み尽くし、見尽くすことができないほどに世界にあふれているから。
しかし、それらの「古典」のうちかなりの部分が、「新しいもの」によって無効化を宣言される瞬間を、しばらく見ていないし、今後も見られることが期待できないとなると、それは決して「おもしろいこと」ではないだろう。
(未完だが、この項いったん終わり)
俗に
「歌は世につれ、世は歌につれ」
と言う。
しかし、これほど実相から離れた決まり文句もあまりないと思う。
もちろん、時代と鋭くシンクロした音楽もある。
2007年に書いた「micro@ivory あるいは「傘がない」」という記事では、井上陽水の「傘がない」が、どれほど1972年という時代を表現した曲であるかを、書いている。
翌年のヒット曲「夢の中へ」も同様だ。それまで、イデオロギーの正しさを主張しあい、真理を探し求め、疲れた人たちに
「まあ、ちょっと休んで踊りませんか」と呼びかけたのだから、やはり連合赤軍事件直後の人々の思いを、非常によく代弁している歌なのである。
ところが、16年後の1989年に、アイドル歌手の斉藤由貴が「夢の中へ」をカバーしてヒットさせた。
筆者は当時、その斉藤由貴のヒットを受けて、子どもたちの合唱団が「夢の中へ」を歌うのをテレビで見て、くらくらとめまいがする思いがした。
当時は絵文字はなかったけれど、まさに orz の気分であった。
井上陽水の「夢の中へ」は1973年に歌われる必然性がある。
しかし、バブル期に子どもたちが「夢の中へ」を歌う必然性は、全くないと思う。
そのあたりから、音楽における時代、新しい音楽といった概念が、どんどんあやふやになっていったのではないか。
カバーという話題でもうひとつ。
The Beatlesの“Strawberry Fields Forever”(1967年)を、英国のバンドCandy Flipが1990年にカバーし、英国ではヒットした。
このチューンも筆者はちょっとショックだった。
ショックの内容については、当時の「美術手帖」に、たしか佐々木敦さんだったと思うけど、筆者の思いを言い当てたかのような文章を書いているので、機会があったら見てください(いま手元にないから、何月号で、書いた人もはっきりしないんだけど)。
カバーというのは、オリジナル全盛の時代にあって、他人の曲でもなんとか自分らしさをアピールしようと必死でアレンジし演奏するのが通例だった。
しかし、このキャンディ・フリップのバージョンには、そういうシャカリキなところがまるでない。オリジナルを超えてやろうという意欲、新しいアレンジにしてみせようという気合が、最初から欠落しているところが、むしろ新鮮で驚きであった。
1970年ごろに最大に達した「新しさの加速度」が、1990年に至って死滅する。
新しさは、もはやない。1990年以降は、手持ちの有限枚のカードを、順番を変えて提示するだけ。
あるいは、当時の人がそういう事態をさして「ポストモダン」とか「歴史の終わり」などと呼び、おもしろがったのかもしれない。
当時はおもしろい事態だったかもしれないが、それが当たり前になってくると、あまりおもしろくない。
歴史を知らない人は案外おもしろく感じられるのかもしれない。しかし、たとえば、おニャン子クラブを知っている人がAKB48を、既視感抜きで見ることができるはずがないように、新しさのない世界がおもしろいはずがない。
筆者は、退屈はしていない。
「古典」と呼ばれる作品ですら、一生かかっても読み尽くし、見尽くすことができないほどに世界にあふれているから。
しかし、それらの「古典」のうちかなりの部分が、「新しいもの」によって無効化を宣言される瞬間を、しばらく見ていないし、今後も見られることが期待できないとなると、それは決して「おもしろいこと」ではないだろう。
(未完だが、この項いったん終わり)